「生きている!」という実感
私にとってかけがえのない大事な一人息子が、家の守り神となって10年以上が経ちます。 お陰様で先月30歳となりました。
我が子が30歳になるなんて、感慨深い心境です。
息子が「学校に行かない!」と布団をかぶってから、私の長い旅の始まりでした。
仏さまは、私に何を悟れと可愛い一人息子をつかわされたのだろう・・・
突然のことに当時の私は頭が真っ白になり、神も仏もない・・・
いわれのない怒りと焦燥感に打ちひしがれ、自暴自棄になりそうでした。
時を同じくして支部長のお役を頂きました。
息子のことがなかったら、受けていなかったように思います。
ただただ、息子を変えたい!今思えば、ご守護と引換の浅い捉え方でした。
その後なかなか変化のない中、怒りとなり・・ むなしさとなり・・ 諦めとなり・・ 半ば強制的に「息子のお陰様で!徳を積ませて頂いている・・」と自分に言い聞かせるありさまでした。
ご本部の時代も含め、多くの方に聞いて頂きました。
しかし、どの方も最後は一貫して「命がある。生きている。」という結びでした。
「ありがとうございました」とお礼を言うものの(でも!どうしたら息子は変わるのか!そこがしりたいのに・・)
青春時代を味わえない息子を憐み、可哀想で可哀想でたまりません。何とも言えない気持ちを抱えてきました。
悶々とした日々の中、薄紙を剥ぐように私の心も変化していたのかも知れません・・。 息子が30歳を迎える1月24日の朝、ご供養の途中に・・・
「お陰様で30歳にならせて頂きました。 今、命を頂き生かされている!息子は生きている!本当に有り難い!」 悶々とした気持ちが、スッーと消え、有り難くなったのです。
仏さまは、
私に命の尊さ、大いなる命に生かされていること!
そのことが当たり前でなく、そのことに感謝できているかを、
説法下さっていたのだ!と思えたのです。
仏さまの大いなるお慈悲を感じ、遠回りしましたが、やっと原点にたどり着いたように思います。
そんな時に頂いた会長先生の2月のご法話は(「生きている!」という実感)でした。
( 「 い ま ・ こ こ 」 に心を向ける)の中で、
( 仏教では 「 い ま ・ こ こ 」 を大事にします。
いま命あることの有り難さを知り、感謝して生きるところに幸せがあります。
それはもちろん、心のもち方しだいでいつでも味わえるものですが、
私たちはどちらかというと、つらく苦しい体験を経て感謝にめざめ、
幸せを知ることになるのです。
しかし、ほんの少し自分の 「 い ま ・ こ こ 」 に心を向けて観察すれば、
生きている実感として、喜びと感動を味わえるのです。) と頂きました。
仏さまの大いなる命に生かされていることに感謝し、仏さまのはたらきを感じられる自分でありたいと思います。
一つ一つの出会いに意識を持って「させていただく」心で喜ばれる私でありますよう、怠ることなくいまを精いっぱい生き、大いに生きる喜びを味わいたいと思います。
合掌
姫路教会長 河南 有紀