きっと多くの方は桜の頃になると、うきうきと心はずむ気持ちを味わっておられることでしょう。
桜の頃・・・私は人生の転機を迎えました。
桜がちらほら見える頃になると、胸がギュッとなるのです。
平成4年11月、次男安昭を死産しました。
お腹の中で異常がわかり、即入院し、検査の結果(ダウン症)でした。
授かった命を家族で支えようと決め、あと3日で出産ということで一時帰宅した翌日早朝出血・・・あっけない別れでした。
私は、その日から時が止まりました。
今でもどうしていたか記憶にありません。
ただ「死にたい!」としか考えていなかったことだけは覚えています。
ある日主人が自転車で出かけようと、誘ってくれました。
言われるまま出かけました。
信号を待っていると、私の目の前に何か降ってきました。
ふと見上げると、満開の桜でした。
「ああもう春が来たんだなあ・・」と思った瞬間、(無常!)という言葉が浮かび、私は号泣しました。
「確かに日々刻々と変化している!いつまでも嘆き悲しんで留まっていたら、安昭ちゃんが悲しむよね ・・・ 生かされているこのいのち!精一杯輝かせよう!」
初めて(無常)を心から認識させて頂いた瞬間でした。
桜の頃になると、いつもそのことが思い起こされます。
その時から、桜が私の一番大事な!大好きな花になったのです。
4月の会長先生のご法話は『未熟を自覚する』と頂きました。
自分の未熟さ愚かさを自覚して、思い上がり・驕慢にならない「智慧の心」・・生かされている!という人間としての本然の気づきをとおし、謙虚に、素直になるとき、あらゆる可能性の扉が開かれる。
そして、人に対するやさしさや思いやりにつながり、人と相和して暮らすことがほんとうの幸せの基になることを、お示しくださいました。
知っている・わかっている・できている! と驕慢極まりない私に、仏さまは、安昭を遣わせて下さり、無常を自覚させ、信仰の原点と修行の出発を促して下さいました。
あれから何度となく桜を眺めては、自分の原点に立ち返ってまいりました。
まだまだ至らない私ですが、この時、与えられた場所で、なすべきことを真心こめて精一杯させて頂き、「いのちいっぱい」生きていこうと思います。
合掌
姫路教会長 河南 有紀