人 を 育 て る
先輩教会長さんから 「 インドに行って、やっと一人前かなあ~ 」 と聞いてから、単純な私は漠然と “ インドから帰ったら少しは教会長らしくなっている ” と信じていた大バカ者である(笑)。
そんな大バカ者の私にインド帰国後、仏さまからのお試しが次々にかかってまいりました。 ふう~!!
よかれと思って伝えたことが、誤解されたり・傷つけたり ・・・
励ましたつもりが反対にプレッシャーを掛け、相手に負担を与えたり ・・・と、私にとって散々なことが次々におこってきた。
初めのうちは 「 仏さまは私に何を説法されているのだろう 」と
受け止められたのが、重なってくるとその重みに耐えられなくなり、
「 自分はだめな教会長だ ・・・ 」 と、落ち込んでいきました。
そんな最中、一つ下の妹から突然電話がありました。
突然というのは、私が奉職してから一方的に妹の方から 「 お姉ちゃんと縁を切る! 」 と言われ、3年以上疎遠になっておりました。
はじめは冗談かと思っておりましたが、それ以降連絡もとだえ、何が何かわからないまま3年という月日が経っていました。
その間、あらゆる方法でモーションをかけたのですが、なしのつぶてのままずっと小さな胸を痛めていました。
そんな妹からの突然の電話が 「 主人が亡くなった 」 だったのです。
頭が真っ白になりました。
3年ぶりの妹との再会が、まさかの主人の告別式 ・・・ 。
それまでの落ち込む心に追い打ちをかけるように、妹との再会・義理の弟との別れ ・・・ 。
まるでドラマの中にいるように、時間が過ぎていきました。
その後も私の心を試されるような、受け入れがたいことが次々におこり、立ち上がれないほどのダメージを受けました。
「 仏さまは、私に何を悟れと説法くださっているのか ・・・ !! 」
暗いトンネルの中 「 佼成7月号 」 を手にし、《 開祖法語録 》 の開祖様のお言葉を目にして、涙があふれてまいりました。
『 心の悩みや苦しみは、人間らしく成長するための踏み台です。
すべてのことが悟りに導いてくれるものであり、無駄なものは一つもありません。
仏教徒として大切なことは、悩む人に、苦は仏さまのお慈悲の表れと気づいてもらえるふれあいを持つことです。
それは、仏さまのお慈悲をより深く、感謝して味わうための、自分の行でもあるのです 』
開祖さまありがとうございました。 合掌
そして会長先生のご法話 「 人を育てる 」 を拝読させて頂きました。
(自分を磨く)の中に
「 自分を磨くためのよい機会が人を育てることであり、教育とは相手の縁にふれて自分も共に育つことだと思います。そのように受けとめると、相手に対して過剰な期待をしたり、性急に成果を求めたりすることがなくなります。 教えるより先に自分を磨くこと、それが人を育てる最短の道だというのです。」
(人に教えることはできない)では
人を育てる目的は 「慈悲心のある人」、人と調和できる人、いつでも思いやりを忘れない人 ・・・ 「相手と縁を結ぶ自分 〔私が!〕そのような人になる」。気をつけたいのは、相手の成長を願うあまり、期待の言葉をかけすぎることです。ほめたり、激励したりしながら、その人のもてる力が最大限に発揮されるような縁になることが、「人を育てる」ということになります。
人を育てる立場の人 〔私だ!〕は、 ⇒ 「自分はまだ至らない、足りない」との謙虚さが大切です。すべてを尊い出会いにして、学んで帰って来る。
その繰り返しが自分を磨く習慣となり、自他の胸に慈悲の心を育むことになると思うからです。
とお示し下さいました。
相手のことを思うがあまり、「こうなってもらいたい・・・、ああなってもらいたい」と、いつしか自分の願いや思いを相手におしつけ、相手の願いや思いを学ばせて頂く、という謙虚さに欠けていた自分であったと会長先生のご法話から学ばせて頂くと、
(見るもの聞くもの全てが仏さまの説法だから、「このご縁は、私に何を教えてくれているのだろう」、まだまだ至らない・足りない私なのだから、どのようなご縁からも学ばせて頂こう!!)
と心から思えた時、暗いトンネルから明るい光が差し込んできたのです。
今年の自分自身のテーマの一つに
「 すべて仏さまのはからいと受け入れる
(バカになって受けきる!!) 」
と、誓願していたのです。
仏さまは、本当に私のことがかわいいのだなあと、少々思い上がりながら(笑)、常に(仏さまはこのご縁を通して、私に何を教えて下さっているのだろう)と自省し、すべてを尊い出会いにして、学ばせて頂く “ 自分磨き ” の7月でありたいと思います。
合掌
姫路教会長 河南 有紀