4月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『 円満な人になる 』というテーマを
〇 あいさつ一つで 〇 悲しみを知る人に の2段落でご解説いただいた。
まず、『 あいさつ一つで 』 の段落では、
ある職場に、朝のあいさつをとてもていねいにする人がいたそうです。
しっかりと相手の顔を見て、「おはようございます」といいながら、頭をゆっくり下げる。
それだけのことなのですが、慌ただしい朝の空気のなかで、ていねいすぎるその姿勢を煩わしく思う同僚もいたといいます。
ところが、しばらくすると職場の雰囲気が変わってきました。
それまで、すれ違いざまに「おはよう」と言い交わしていた人たちも、それぞれが相手としっかり向きあってあいさつをするようになり、やがて職場の空気が和らいできたというのです。
円満とは、人格が「十分に満ち足りて、欠点や不足のないこと」です。
ですから「円満な人になる」といえば、いわば人間の理想に近づくことで、仏教徒にとっては仏さまのような人になることを意味します。
人に安心や満足を与え、そのことをとおして、相手に「人と仲よくしたい」という気持ちを発(おこ)さしめたり、その場に調和をもたらしたりするのが仏(ぶつ)・菩薩(ぼさつ)のはたらきと受けとれば、朝のあいさつ一つで人の心を動かし、職場に和らぎをもたらした人は、まさに円満な人そのものです。
だれもがみな、仏性を具えていることの証ともいえましょう。この春、新たな出会いを円満な人間関係にする決め手も、あいさつをとおして相手の仏性を拝むことにあるといえるかもしれません。
『 悲しみを知る人に 』 の段落では、
人間の本質が仏性であり、人格円満であることを示す話、江戸時代の妙好人(みょうこうにん)(浄土真宗の篤信者(とくしんじゃ))の二人。
奈良の吉野の清九郎という人は、留守宅にあったお金を盗まれたとき、「私のような者の家に盗みに入るその方は、よほど困っていたのでしょう。たまたまわが家にお金があったのでその人も得るものがあり、うれしく思います」と。
そして、「私はいま、仏の慈悲に導かれて “ 盗まれる身 ” にさせてもらい、これほどうれしいことはありません」と語ったというのです。
また、大阪の物種吉兵衛(ものだねきちべい)さんは、「よいときばかり喜ぶのならだれでも喜ぶ。どのような難儀なことに遇うても、その難儀の底にかかってある仏法や」と、困難が教えてくれる「感謝の種」に気づける喜びこそ信仰の醍醐味(だいごみ)であり、真骨頂(しんこっちょう)であることを伝えています。
こういう方々の心には、み仏に生かされていることへの感謝と、人に対する慈悲、思いやりがあるばかりです。
円満とは、人格が「満ち足りて、不足がないこと」の意で、それはまた、なにごとも「ありがたい」と感謝で受けとめられる温かな充足感そのものといえます。
ところで、先の清九郎さんは父親を早くに亡くし、母親との貧しい暮らしの中で出会った妻とも、三十三歳のときに死別しています。悲しみやつらさを、とことん味わったからこそわかる、人の心の痛み。
そこからわき出る慈悲の思いが、おのずから人を救う智慧を発さしめたのでしょう。
菩薩の心の奥には七転八倒の苦悩があり、言葉に尽くせない思いがある。
「悲智円満(ひちえんまん)」という言葉があります。
釈尊も、私たちも、慈悲と智慧をあますことなく発揮するために、この世に生まれてきたといわれています。
と、締めくくられた。
今月は、すべてが要点ですので、ほとんど全文を載せましたが、
『 降誕会 』を迎え、お釈迦さまと私たちは同じ使命をもってこの世にいのちをいただいたと、会長先生はお示しくださいました。
「 悲智 」の意味は、智慧にもとづかない慈悲は本当の慈悲ではない、ともいわれます。
釈尊にはほど遠い私たちが慈悲と智慧をあますことなく発揮するためには、まず、あらためて三つの実践の「朝のあいさつ」から真心でさせていただく実践と、ご法の習学を深めることを、今月はしっかりと精進させていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡