6月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『踏みとどまる』というテーマを、
〇 まず、ひと呼吸 〇 思いやりの心で
の2段階でご解説いただいた。
まず、『まず、ひと呼吸』の段落では、
現存する経典のなかで最も古いものの一つとされる法句経[ほっくきょう]に、「走る車をおさえるように、むらむらと起る怒りをおさえる人――かれをわれは<御者[ぎょしゃ]>とよぶ」という一節があります。
ここで釈尊は、怒りをコントロールすることの大切さをお諭しくださっています。
怒りや欲、自己中心の考えに流されそうになったとき、どうすれば踏みとどまることができるでしょうか。
私は、とりあえず「ひと呼吸おく」ことをおすすめします。
一度、深呼吸をするだけで少し心が鎮まります。できれば、ひと晩おいて冷静に考えるのも大切なことでしょう。
また、信仰をもつ人であれば、心に貪[とん]・瞋[じん]・痴[ち]の黒い雲がわきかけたら、「仏さまはどうお考えになるだろう」「どうなさるだろう」と思いをめぐらせば、冷静さをとり戻せると思います。なかには、神仏のような姿の見えない存在ではなく、「親父ならどうするだろう」「母なら・・・・」と、直接ご縁のあった身近なお手本を思い浮かべ、怒りや欲やわがままな気持ちを落ち着かせる人もいることでしょう。
「八正道[はっしょうどう]」の二つめにあげられる「正思[しょうし]」は、「貪・瞋・痴を離れ、仏さまのような大きな心で考える」ということです。それを生活に即していえば、感情や衝動に駆られそうになったら、まず「ひと呼吸」入れて踏みとどまる、というところに、実践※の入り口があるのではないでしょうか。
※三つの基本信行の実践(①ご供養 ②導き、手取り、法座
③ご法の習学)
『思いやりの心で』の段落では
貪欲[とんよく](欲ばり)、瞋恚[しんに](怒り)、愚痴[ぐち](自己中心の愚かさ)という「意の三悪」をなくし、大きな心で考える――その大切さは、みなさんも理解していると思います。ただ、それゆえ「そういう人になりましょう」「欲のとらわれから離れましょう」などといわれればいわれるほど、「いつまでも自分が、欲や怒りや自己中心の心から離れられないダメな人間に思えてしまう」という、あきらめにも似た嘆きを聞いたこともあります。そこで、少し見方を変えて「正思」の内容を吟味し、理解を深めてみてはどうでしょう。
欲ばる心、怒りの心、他を蔑[ないがし]ろにする心のないのが「正思=正しく考える」ということですが、それは「分けあう心」「あたたかく接する心」「いたわる心」で考える、と言い換えることができます。そして、それをひとことでいえば「思いやり」にほかなりません。つまり、ここでいう「正しく」とは、「思いやりの心で」ということになります。
完璧な人間はいません。ですから、ときには欲張ったり怒ったりする心を抱えながらも、「思いやりの心で考える」習慣を身につけることが大切だということです。
そうすると、だれでも仏さまのような大きな心で考え、行動できます。しかし、先の「踏みとどまる」にしても、「思いやりの心で」ということにしても、人生にはそれがほんとうに難しい局面が一再ならず訪れるものです。
人とのトラブルなどで激しい感情にふり回されそうなときほど、静かに大自然のありようを想い、心の枠を広げてみましょう。天地自然と私たちが一つであるように、目の前の人とも一つなのだ――そうした気づきによって、私たちは自らの心の<御者>になれます。仏さまのような大きな心で、感謝の人生を歩むことができるのです。
と、締めくくられた。
今月も、すべてが要点のように解りやすくご指導いただきましたので、ほとんど全文を引用させていただきました。
5月号で、しばらくの間、「八正道」を学んでまいりましょう、とご指導いただき、今月は「八正道」二つ目の、「正思」を学ばせていただきました。
『 円満な人になる 』という目標に向かって、まず、自行をしっかり身につけることの重要性をお示しいただき、7月以降のご法話が楽しみであります。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡