7月度 教会長のお話

 7月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。

 今月は、『和らぎをもたらす言葉』というテーマを、

 

〇 正直に、誠実に  〇 かなしみを抱いて 

の2段落でご解説いただいた。

 

 まず、『正直に、誠実に』の段落では、

 

 釈尊の基本的な教えである「八正道」の一つに、「正語[しょうご]」がある。

その意味は、真理にかなう言葉を語るということ。ふだんは「正しく語る」ことをほとんど意識していない。よって、「正語」と言われても、すぐに生活実践と結びつく人は多くないかもしれない。それでも、日ごろ人と接する際、私たちはその場が和むような会話を自然にしているはずです。なぜなら、そのほうが楽しいからであり、そして、安らぐからです。

 「正語」は「有益な言葉を語る」と受けとめることもできるが、調和や和合は私たちが生きるうえでたいへん重要なこと、有益なことですから、その場が和らぐ言葉は、まさに「正語」と言える。 

 ただ、私たちはときに、調和や和合を乱すような言葉を使ってしまいます。その第一は、自分に都合のいい嘘をついたり、真実を偽って伝えたりすることです。

 釈尊は、在家の弟子に向けた説諭のなかで、「他人に向かって偽りをいってはならない」と明言されている。嘘は他人を惑わせ、和合を破り、結局は自分を苦しめる。そのように考えると、「正語」を実践するうえで大事なのは、何をどう話すかというよりも、正直に生きる誠実さを忘れないことなのかもしれない。

 言葉の内容ではなく、対話する相手と向き合う姿勢ということで思い起こすのは、ノルウェー国教会オスロ名誉司教のグナール・スタルセット師の会議での姿勢。国際会議の席で意見が分かれるようなときでも、その場をじつにうまくまとめていかれる。とはいえ、師が饒舌なのではなく、むしろ、寡黙な方。さまざまな声にじっくりと耳を傾け、求められれば穏やかに見解を述べつつ、最後に「では、このようにしてはどうでしょうか」と、皆さんに諮る[はかる]

 立場の違う人が集まる席では、議論が紛糾することもあります。そこに調和をもたらすのは、人の意見をよく聞いて思いを酌みとる姿勢と、自我を抑えた公平な態度から発せられる言葉だということでしょう。師の示すこの姿勢には「正語」の意味あいの核心が示されている。

 

 『かなしみを抱いて』の段落では

 

 日本語で、漢字の「愛」は「かなし」という。愛する、慈しむということは、悲しむということであり、母親がわが子を愛おしむ心、といえばわかりやすいかもしれない。「正語」、すなわち「正しく語る」ということのなかには、そうした慈しみ、悲しむ心と、相手の幸せを念ずる情が籠められているのではないでしょうか。

 「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」とは道元禅師の言葉であるが、スタルセット師の言葉には、宗教者に共通する慈愛の念が籠められており、だからこそ誰にも受け入れられるのだと思う。良寛さんが放蕩三昧[ほとうざんまい]の甥を改心させたのは、説諭の言葉でも叱責でもなく、甥を思って流したひと筋の涙だった。慈愛に満ちた沈黙によって伝わる「正語」もあるということ。

 私たちの幸せをだれよりも念じて下さる両親やご先祖の愛心を、この盂蘭盆会の時期にあらためてかみしめてみるのもいいのではないか。

 

 と、締めくくられた。

 

 今月は「八正道」の三つ目の、「正語」を学ばせて頂きました。

『円満な人になる』(4月号ご法話)という目標に向かって、まず、自行をしっかりと身につけることの重要性をお示しいただきました。

❝ 楽しく生きる ❞ ための「正見」(5月号)は、「天地のはたらきを素直に見ること」。

❝ 踏みとどまる ❞ ための「正思」(6月号)は、「『思いやりの心で考える』習慣を身につけること」。

そして、❝ 和らぎをもたらす言葉 ❞ としての「正語」は、「正しく語る」ことと、また、「正語」には慈愛に満ちた沈黙によって伝わるものもあると、ご指導をいただきました。

 

「八正道」の学びを深めながら、三つの基本信行の実践に、一層取り組むことを誓願させていただきましょう。

 

 

                                                                      合掌

 

                                                               立正佼成会 姫路教会

                              たかとし

                         教会長 吉 田 高 聡