10月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『自他ともに心楽しい精進を』というテーマを、
〇 樹木が紅葉するように 〇 本来の自分に出会う
の2段落でご解説いただいた。
まず、『樹木が紅葉するように』の段落では、
紅葉[もみじ]してそれも散行[ちりゆ]く桜かな
暦の上では秋を迎えたこの時季の趣を、俳人の与謝蕪村がこのように詠んでいます。桜の葉が、ほかの樹木に先んじて色づき散るようすを描写した句ですが、春の花がみごとに咲き、散っていく姿を重ねあわせると、与えられた生をひたむきに全うする桜木のありように胸を打たれます。
私たちは、ものごとにいっそう勤め、励むときなどに、努力とか精進という言葉を使います。そのためでしょうか、ひたむきな努力や精進と聞くと、骨の折れる、苦しいことに感じられます。信仰においても、「精進、精進、死ぬまで精進、生まれ変わったらまた精進」といった意気込みにふれると、思わず気圧[けお]される人もいそうです。
ただ、精進というのは、本来、気負って努めることでも、苦しみに耐えながら励むことでもないと思うのです。
私たちがよく口にする「精進しましょう」は、「まじり気のない自分本来の力を、まっすぐに発揮していこう」という意味と受けとることができるのです。
そう考えると、冒頭の句のような、桜の葉が紅葉し、散るといった自然の営みは、すべてが精進のありようを示すお手本といえます。そして私たちも、絶えず創造・変化する自然の一部ですから、「天地自然の理[ことわり]に随って生きるように」と勤めることが精進であり、「八正道」に示される「正精進」とは、そのことをいうのではないでしょうか。
『本来の自分に出会う』の段落では
ただ、樹木と違って、私たち人間には自分本位の我が出ることがあります。好き嫌いや善し悪しなど自分のものさしがあり、目の前の現象を素直に受けとれなくなるときがあります。そのとき、心を真理にそわせていく工夫をこらすことが「精進する」ということで、その工夫、つまり、ときに応じた精進のあり方を、釈尊はさまざまに説き示されています。
たとえば、『心田を耕す』でも紹介した詩偈[しげ](スッタニパータ等)の中の、「恥じる」「内省する」「身と言葉を慎む」「過食しない」「真実を守る」「柔和」などの姿勢をとおして、ときどき顔をだす自分のわがままな心を反省したり、懺悔したりしながら本来の自分に帰るのです。ただし、やはりどれも気負って努めることではなく、むしろ自分もまわりの人も、ともに心楽しくなるような工夫ととらえてみてはどうでしょう。
少し言葉を慎むだけで調和が生まれ、柔和に接することで相手の心がほぐれます。腹八分目で体が楽なのは、だれもみな体験していることでしょう。
以前、まるでこの詩偈を写したかのような、「正精進の心で日々をすごす誓い」を機関誌で見たことがあります。「人の喜ぶことをしよう」「人に親しまれる自分になろう」「自分に恥じない行動をしよう」「人にはやさしく親切にしよう」「絶対に怒らない自分になろう」。このことを日々くり返し自分に言い聞かせ、ときには反省しながら仏道を歩む喜びを語っておられたのです。それは、精進をとおして本来の自分に出会う喜びだと思います。そして、この本来の自分とは、いうまでもなく仏性にほかなりません。
と、締めくくられた。
今月は「八正道」6つ目の、「正精進」を学ばせていただきました。
会長先生は、「精進というのは、本来、気負って努めることでも、苦しみに耐えながら励むことでもないと思うのです。」と、第1段落でご指導くださいました。また、「精進」とは「自分もまわりの人も、ともに心楽しくなるような工夫ととらえてみてはどうでしょう。」そしてそれは、本来の自分(仏性)に出会う喜びであると、締めくくられました。
法華経は自覚の教えと言われます。本来の自分を自覚し、明るく・やさしく・温かな自分になれるよう、精進・向上を求めて、三つの基本信行に、気負わず、休まず取り組みましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡