3月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『 自他の幸せを願う心 』というテーマを、
◎ 「仏の子」だからこそ ◎ 生きた経典として の2段落でご解説いただいた。
まず、『 「仏の子」だからこそ 』の段落では、
〇私たちはみな、だれもが、自分や家族の幸せを願っています。そして、同時に他人の幸せを願う心も、私たちは持ち合わせています。
無量義経に「広大な慈悲の心をもって人びとの苦しみを除き、災難から救ってあげることができる」とあります。みなさんには、その自覚があるでしょうか。
〇つまり、「仏の子なので、人びとの苦しみを除き、災難から救って、安楽な気持ちにしてあげられる」というのです。すると、私たちに「仏の子」という自覚があるかないかが大事になりそうですが、実際にそのような自覚をもって人とふれあっている人は少ないかもしれません。
ただ、たとえば「私たちの命は本来、無常[むじょう]であり、無我[むが]なのだ」ということがわかったら、その人は「仏の子」だと思うのです。三法印[さんぽういん]について自ら学んだり、あるいは人から聞いたりして、「ほんとうにそうだな」と胸に落ちるのは「仏の子」だからです。
〇少しでも「ものごとは変化してやまないのだ」とか、「みんな仏性のあらわれで、この世のすべてが大調和している」と気づいたならば、それは「仏の子」の自覚に違いなく、その人は自他の幸せを願い、周囲に幸せを運ぶ菩薩の一人といえるのです。
『 生きた経典として 』の段落では
〇佼成会では、「入会者即布教者」といいます。経典には「自分がまだ迷いから抜けだすことができていなくても、仏の教えを聞いた人は苦しむ人たちを救うことができる」と、はっきり示されています。
たとえば、友人に強い怒りを抱いていた人が、仏の教えを聞いて「その怒りは、友人を自分の思いどおりにしたいという利己心[りこしん]が原因だった」と内省したとしましょう。そして、そのことで和やかな関係をとり戻した体験談を、人を恨みつづけて苦しんでいる人に話したとき、「私もそのような見方、受けとめ方を身につけたい。気持ちを楽にして、幸せになりたい」と思わせる力がそこにあるのです。
なぜなら、たとえ自分はまだまだ未熟でも、仏の教えが真理にかなっているからです。そして、だれもが人と調和したいと願っているからです。
〇経典にはまた、「この教えは人びとが菩薩行を実践するところにある」とあります。いきいきと明るく生きる自分の姿をとおして、苦悩に沈む人の心に真理の光を届け、安らかな人生に導いていく「一切衆生の良福田[ろうふくでん]」、すなわち幸せを生みだす一人ひとりになっていきたいと思います。
その意味で私たちは、いつでも、だれにも、「明るく、優しく、温かく」の姿勢を忘れないことです。経文を上手に説明できなくても、相手を思いやる姿勢に徹する人は、自他に幸せを運ぶ「生きた経典」となり得るのです。
と、締めくくられた。
1月の「佼成」では「みんな善の根っこをもっている」というテーマで、善根(仏性)の自覚の重要性とその自覚に立つと、 “ 布教伝道 ” への発心が芽生え、まず身近な人の善き縁になろうと、具体的にお示し頂きました(「徳行品:序分」)。
2月のご法話では「人を思いやる心の習慣」というテーマで、人との縁を結ばせて頂くときの、欲得抜きの慈悲かけの大切さをお示し頂きました(「説法品:正宗分」)。
3月は、創立記念日を迎えるにあたり、開祖さまの創立の精神「人を救い、世を立て直す」という願いを、「自他の幸せを願う心」というテーマで、相手を思いやる姿勢に徹する人が、自他の幸せを運ぶ「生きた経典」となるという、実践の大切さでお示し頂きました(「十功徳品:流通分」)。
法華経の開経である無量義経を3ヵ月にわたってご解説頂きました。人としての実相(仏性)を自覚し、皆に備わるそれを、気づいて頂けるよう、努力精進することをお誓いいたします。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡