令和元年 9月度 教会長のお話

 9月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。

 今月は、『「違い」があるからこそ』というテーマを、

○ みんなを愛おしむ心、○ 「違い」がある意味と尊さ の2段落でご解説いただいた。

 まず、『みんなを愛おしむ心』の段落では、

 紀貫之が、「古今和歌集」に収めた自身の恋歌の一つに、次の歌があります。

「世の中はかくこそありけり吹く風の 目に見えぬ人も恋しかりけり」

 これを恋愛の歌として読めば、それはそれで理解できます。ところが、ある方によると、この歌は、私たちがなかなか気づかない一つの「真実」を歌い上げているというのです。その「真実」とは、人はみな心の根底において、この世に存在するすべてのものを愛おしいと感じ、慈しんでいる、ということです。

 しかし、現実にはそうとは言えない状況があちこちで見られます。考え方やものの見方の違いが原因で人と言い争ったり、いがみあったり、交流を断ったり、国同士が戦火を交えたり・・・・。残念なことに、宗教間の対立も現実の問題として存在します。多くの人が、他人との違いを受け入れられずに苦しみ、悩み、無益な争いまでしているのです。

 そうした中で、私たちが身近でできることは、他者との違いを違いとして認めて受け入れることですが、それにはまず「私の胸の内にも、この世のすべてのものを愛おしいと感じ、慈しむ心がある」と自覚することです。すると、人と自分に違いがあることの尊さも見えてくるはずです。

 『「違い」がある意味と尊さ』の段落では

 私たちは、一人ひとり異なる因と縁によって生まれてきています。また生まれてからも、一人ひとりがそれぞれ独自の縁にはぐくまれて、「私」という個性があります。

 ですから、人種や容姿はもとより、人と考え方やものの見方が違うのは当然で、違いを理由に対立したり、排除したりするのは、自分の個性を否定することと同じです。

 宗教の世界においても、人それぞれの縁に随って救われる道が異なるのは自然なことで、キリスト教の教えで救われる人もいれば、イスラム教や仏教の教えで救われる人もいるのです。それは、安らぎを求める人が、信じ仰ぐ教えがたくさんあるということです。この地球に生きるすべての人に安心を与えるため、宗教・宗派のそれぞれが個性を発揮しつつ、お互いに補いあっているともいえます。

 宗教をそのように見ると、人を安心に導くという慈愛の一点において、宗教は一つに結ばれていることがわかります。そして、宗教によるその慈愛のはたらきかけによって、私たち自身も、心の底に具わる「他を愛おしみ、慈しむ心」を掘り起こされ、それを実践せずにはいられなくなる――仏教でいえば、それが菩薩の生き方です。

 私たちには、ふと自他の違いを感じて、人にやさしくできないときもあります。そういうとき、外に向いた目を自分の心の内側に向けると、違いを受け入れやすくなります。

 私は、国際会議の席などで、意見の異なる人に出会ったときに、よく「私にはない考えをもっておられて、すばらしいな」と感じます。そして、その違いをとおして、まだまだ知らないことばかりの自分であると教えられるのです。自分の意見を声高に主張し、違いを盾に角突きあわせるよりも、違いを認め、受け入れて相和[あいわ]し、その和の醸成[じょうせい]をお互いに喜びあえるほうが幸せではないでしょうか。

 法華経の「薬草諭品[やくそうゆほん]」に「如来[にょらい]の説法は一相一味[いっそういちみ]なり」とありますが、宗教に共通する目的と、私たち一人ひとりの胸底に宿る心を考えあわせると、この宇宙船地球号の乗組員はみな、安らぎと幸せを得ることを約束されているという意味で、「宇宙の真理は一相一味」ともいえます。私たちには、それを現実の世界で証明するお役があるのです。

と、締めくくられた。

 今月は、内容が全文重要と思い全文掲載しました。特に、「薬草諭品」は、平等と差別について説かれている品ですが、「諸法」の差別相と「実相」の平等相の見方を現在の世相に合わせて、どう受け止めるかという受け止め方をご指導いただきました。

 おりしも、先月20日~23日にドイツで第10回WCRPが開催され世界の宗教者のみなさんも「慈しみの実践」というテーマで会議が行われました。たとえ自分と意見が違う人、害をなす人であっても、仏さまは全ての人に安らぎと幸せを与えてくださるというお慈悲をしっかりと信解できるよう精進させて頂きましょう。

 そして、会員各家のすべてのご先祖様に成仏いただくべく、「彼岸会」に向かっての手取り修行に取り組みましょう。

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡