10月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『「仏」を供養する』というテーマを、
◎ なぜ「仏」がたくさんいるのか ◎ 「供養」の基本は思いやり の
2段落でご解説いただいた。
まず、『なぜ「仏」がたくさんいるのか』の段落では、
法華経の「授記品[じゅきほん]」には、釈尊の弟子たちが「あなたも仏になれますよ」と、仏になれる保証を授かる「授記」のくだりが繰り返し出てきます。その中で釈尊は、弟子それぞれに、仏を供養し、尊重することの大切さを、その内容とあわせてくわしく説いています。
それにしても、私たちからすると、「三百万憶」や「八千億」といった、計り知れない数の「仏を供養する」と聞いただけで別世界の物語に思えます。「未来世」「当来世」とありますから、生まれ変わり死に変わりを繰り返しながらということでしょうし、自分に実践できるとはとても思えません。
ただ、人間・釈尊が、悟りに至るまでに出会った人や、教えを受けた人、さらには、真理を伝える旅でふれあった人びと、そうした人たちすべてを「仏」と受けとめる見方に立って読むと、先の経文も違って見えてきます。同時に、日々に出会う一人ひとりを、釈尊に倣[なら]って「仏」と受けとめるとき、この経典の一節が、私たちの日常生活における実践課題として身に迫ってくるのではないでしょうか。
『「供養」の基本は思いやり』の段落では
目の前の人を「仏」とみるということでいえば、臨済宗を開いた臨済義玄禅師[りんざいぎげんぜんじ]が、次のような言葉を残しています。「もし君たちが、仏を外に向かって追い求める心を離れたなら、そのまま仏である。いま、私の目の前でこの説法を聴いている君たちが仏にほかならない」
修行仲間に向けられた言葉ですが、自分は本来、清浄[しょうじょう]な心をもつ仏なのだと自覚すれば、自分も仏、目の前にいる相手も仏ということで、それは「出会う人はみな、すべて仏」と信じ、受けとめることにほかなりません。
人は、死んだ人に手を合わせることはできても、生きている人にはなかなか手を合わせることができないといわれますが、亡くなった人も生きている人も同じ「仏」であれば、目の前の人に「恭敬[くぎょう]・尊重[そんじゅう]・讃歎[さんだん]」の気持ちを示す「供養」を行なうのも、不思議な話ではないどころか、むしろ当たり前のことです。
では、具体的に何をするのか ―― 仏に感謝のまことを捧[ささ]げる「供養」の中でいちばん大切なのは、教えを実践することだといわれます。実践をとおして、教えが真実であることを体得する。釈尊のように慈悲[じひ]の心で日々をおくる。やさしく言えば「人の悩み苦しみが少なくなるように、楽しみが多くなるように」と願って、人を思いやることです。
それが、目の前にいる「仏」に対する供養であり、ひいては、修行・精進を重ねて得た真実を説いてくださった釈尊、つまり「仏さま」への感謝と尊崇[そんすう]の気持ちを込めた供養となるのです。こうして私たちは、思いやりがあふれる人間になるにつれて、「仏」に近づくでしょう。
私たち一人ひとりを一枚の布にたとえれば、みんな「仏」になる資質をもったすばらしい「布」です。そこに慈悲 ―― 思いやり ―― の実践という裏地が施されると、「仏」という最高の「衣」になるということかもしれません。
と、締めくくられた。
開三顕一の法門は、仏性の自覚を確立することを促しています。
そして、それは自らの救われだけではなく、多くの人が救われるための実践こそ尊く、その実践を通じて成仏に向かって精進する決定を、本仏は願っておられる。そのことに気づき表明したものに授記が与えられます。
しかし、成仏の保証には条件があり、多くの仏を供養した暁にというもので、会長先生は、その多くの「仏」というものは、日々に出会う一人ひとりを、釈尊に倣って「仏」と受けとめるとお示しいただいた。つまり、今、目の前におられる人の仏性をどれだけ拝めるかが、多くの「仏」を供養することであると明快にご指導くださいました。よって、別世界のような物語ではなく、今からすぐに人を思いやる実践に取り組めばよいと思わせて頂きます。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡