令和元年11月度 教会長のお話

 11月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。

今月は、『「励まし」と「精進」』というテーマを、

○ 仏からの励まし ○ ていねいに生きる の

2段落でご解説いただいた。

 

まず、『仏からの励まし』の段落では、

 信仰の世界では、よく神仏に「救われる」といういい方をします。仏教でいえば、仏が私たちを救ってくださるということですが、それは、単に「救い」を待っていればいい、という意味ではなさそうです。

 仏の教えに結縁[けちえん]した私たちは、すでに、そしてつねに、教えをとおして仏から「励まし」を受けているわけですから、苦悩の世界から出ていくみずからの実践が大事であると、いまさらながら痛感させられます。

 「化城諭品[けじょうゆほん]」の一節が説かれた偈[](詩)の結びの一文、回向[ふえこう]」で知られる次の経文「願わくは此の功徳を以て/[あまね]一切に及ぼし/我等と衆生と/皆共に仏道を成ぜん」

 この一節は、「仏を供養する功徳を、多くの人びとに回向し(差し向け)て、みなともに仏の境地に達したい」と願う言葉で、少し難しい印象ですが、私たちの生活にそって読み直すと、意外なほど身近な精進が浮かびあがります。

「家族や友だちをはじめ、ふれあう人には、いつもやさしくしよう。朝夕のご供養をとおして、自分の心と行ないを見つめよう。そうして多くの人の善き縁となり、善き友となって、ともどもにほんとうの幸せを味わおう」

 仏からの励ましを受けて実践する「みずからの努力」とは何かを考えるとき、私はこの経文のような、大きな願いにもとづく身近な精進が、真っ先に思い浮かぶのです。

 

『ていねいに生きる』の段落では

「善き友」といえば、「善き友、善き仲間といることは、仏道の半にあたるのでしょうか」と問う弟子に対して、釈尊が「それこそが、仏道のすべてですよ」と説かれた話が有名です。そして釈尊は、後日この話を前置きとして、コーサラ国のパセーナディ王に大事な助言をしています。

「王さま、あなたは人々の善き友、善き仲間として、率先して善きことにつとめ励むことです。すると、あなたがつとめ励む姿を見たり聞いたりした人はみな、王さまからどんな叱咤激励[しったげきれい]を受けるよりも強く、『私も怠[おこた]らずに、つとめ励もう』と思うはずです」と説き示された

です。

 これは私たちへの助言でもあります。親が子の幸せを願って激励するとき、まず自分がどのような人間になりたいかという「心願[しんがん]」が大事と言われますが、そのことにも通じる説話です。ただ「善きことにつとめ励む」とは何かといえば、それは暮らしのなかにある当たり前のことをな

おざりにせず、日々をていねいに生きることでしょう。

 だれにとっても、いまいるそこが仏道実践の「道場」ですから、いつでも当たり前のことを一つ一つ感謝して行ない、まわりの人と一緒に心を磨いて幸せを味わう。それが「精進」であり、「皆共に仏道を成ぜん」ということです。

 ところが、私たちはときとして怠け心が起こり、当たり前のことさえできないことがあります。そのとき、私たちを支えるのが志[こころざし]や願いです。「あの人のようになりたい」と理想の人をめざしつつ、焦らずに、た歩き出せばいいのです。すべての人にほんとうの幸せをと願う仏を理想とし、人びとの「善き友」でありたいと願って――

 

と、締めくくられた。

 

化城諭品では、私たちと仏さまの過去世からの因縁が説かれ、「仏は過去の世から無数の人を導いて来たが、その教化を受けた人たちというのは、実はいまここでわたしの教えを聞いているあなたがたにほかならないのです。また、わたしが死んだのちの未来世において弟子となる人も無数にある」と、経文に説かれています。

仏弟子として、今世、この教えに導かれ、いま開祖さま、会長先生の弟子にしていただけたことに感謝し、自分も仏さまのようになりたいという願いをもって、会長先生からお示しいただいた「知足」、今が最も救われていることの自覚を深め、どのような状況にあっても、すべては仏さまのお慈悲であり、救いであるという、見方を身につけられるよう、良き仲間と支え合いながら、努力精進させていただくことをお誓い申し上げます。

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡