令和2年9月度 教会長のお話

 令和2年9月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。

 今月は、『ともに悲しむ心』というテーマを、

 ○ 人の悲しみを悲しむ心情、○ 自他の仏性が輝くように 

 の2段落でご解説いただいた。

 まず、『人の悲しみを悲しむ心情』の段落では、

 最初に、詩の一節をご紹介しましょう。福島県の高校で国語の教師をつとめるかたわら、詩人としても活躍する和合亮一(わごうりょういち)さんの、「ともに」という詩です。

 「あなたの涙が/わたしに/教えてくれたこと/人は弱い/人は悲しい/人は切ない/だけど/ぬくもりがある/人は人を想う/人は人を愛する/人は人に涙する/あなたも/わたしも/さびしい/だけど/あなたも/わたしも/共に/生きている」(『十万光年の詩(うた)』佼成出版社刊)

 つらい経験をして悲嘆(ひたん)にくれる人に出会ったとき、私たちはこの詩のように、相手を思い、ときにはともに涙したり、手をとって「いつでもそばにいますよ」と励ましたりします。それは、私たちが人の苦しみに共感して、ともに悲しむことができるという、他の動物にはない懐(ゆか)い心情をもつ人間として生まれたからです。

 その共感力といえるようなものは、生きること、老いること、病むこと、死を迎えることなどをとおして、つらく悲しい気持ちをたくさん味わった人ほど、より発揮されるのだと思います。まして信仰をもつ人であればなおのこと、人の苦しみや悲しみがよくわかり、身につまされるのではないでしょうか。なぜなら、数学者の岡潔(おかきよし)さんの言葉をお借りすれば、「人の悲しみがわかること、そして自分もまた悲しいと感じることが宗教の本質」といえるからです。

 そしてその本質は、法華経「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」の掉尾(ちょうび)を飾る、「何を以てか衆生をして 無上道に入り 速やかに仏身を成就することを得せしめんと」の一句にも示されています。

 『自他の仏性が輝くように』の段落では

 9月のいまごろのことを、暦のうえでは「白露(はくろ)」といいます。朝の草花に宿った露(つゆ)が、日光をあびて輝くさまのことですが、露には「露の世」という言葉に見られるように、はかない印象もあります。しかし先の一句は、露のようにはかなく思える無常の世にあっても、「悲しみにくれる人がいないように」「だれもが仏性に目ざめて救われるように」と願う、仏の切なる思いを伝えているのです。それはまた、菩薩として人に寄り添う生き方を私たちに示します。

 つらい立場の人に寄り添うということでは、釈尊とチューラパンタカ(周利槃特(しゅりはんどく))の逸話がよく知られています。

 ひどく物覚えの悪かったチューラパンタカは、出家して3か月がすぎても、教えの一節すら覚えられません。そのために、先に釈尊の弟子になっていた兄から「もう出ていきなさい」と、たしなめられるのです。ところが釈尊は、自分の愚かさを嘆(なげ)き、泣き沈むチューラパンタカに、一本のほうきを手渡して諭(さと)します。これで毎日、周囲の掃除をして「塵(ちり)を払わん、垢(あか)を払わん」と唱えるように、と。

 やがてチューラパンタカは、その言葉を覚えると同時に「心の掃除が大事なのだ」と気づいて感激し、ついには釈尊の弟子の中でも重きをなすようになったのです。

 チューラパンタカの心を救い、悲しみや絶望感を喜びに転じさせたのは、ひたすらに仏性を信じて寄り添う、釈尊の大慈大悲(だいじだいひ)から生まれるやさしさにほかならないでしょう。

 先ほど「無常の世」といいましたが、私たちは、はるかな過去から生まれ変わり死に変わりするなかで、いま、ここに生かされています。それは、善いことも悪いことも含めた過去の経験を内包(ないほう)しつつ、私たちが仏と同じ「永遠のいのち」を生きているということです。

 善も悪ももちあわせる私たちの、だれにも共通するのは、仏性という揺るぎない本質です。だからこそ、私たちは自他の仏性が輝くようなふれあい、とりわけ悲しむ人に喜びを与える縁となる実践が、大切だと思うのです。

 と、締めくくられた。

 今月は、「ともに悲しむ心」というテーマで、8月に引き続き「如来寿量品」を背景に解説をいただきました。

 寿量品を通じて、すでに悟りを開いた、成仏している自分であるという立場に立つことの大切さ、本仏と一体であることの視点に立つことの重要性を会長先生は促していただいています。

 そして、人さまをお救いするときに必要なことは、釈尊がチューラパンタカを救われた、大慈大悲から生まれるやさしさに他ならない。そのやさしさの基本は共感力であり、四苦を味わった人は、人の苦しみや悲しみがよくわかる。

 つまり、人さまの苦しみや悲しみを取り除いていこうという自覚に立てたら、今のままの自分で十分お役に立てると思えると、布教伝道への意欲が湧いてくるのを覚え、心配行に一所懸命精進させて頂きたいと思います。

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡