令和3年4月度 教会長のお話

 令和3年4月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。

 今月は、『いまをともに生きる』というテーマを、

 ○ 実践によって仏になる、 ○ 春風となって 

 の2段落でご解説いただいた。

 まず、『実践によって仏になる』の段落では、

 まもなく、釈尊(ぼさつ)がお生まれになった4月8日の降誕会を迎えます。仏伝によれば、釈尊は誕生してすぐに「天上天下唯我独尊(てんちょうてんげゆいがどくそん)」と宣言されたといわれます。これは、釈尊を讃える伝説の一つとされますが、私は仏教の本質をこれ以上ない表現で示したものと受けとめています。

 この「誕生偈(たんじょうげ)」を、ある方は「われこそは、この世にたぐいなきものである」と表現しています。釈尊だけでなく、人はだれもが生まれた瞬間から、それぞれ他と比べようのない尊い存在だということです。そして、その自らの命の尊さを自覚して生きることを教えるのが仏教ですから、「誕生偈」はそうした仏教の核心を釈尊降誕の物語にことよせて伝えているといえるのです。

 また、仏教は「人が人を救う教え」ですが、その点から見ても「誕生偈」の意義には味わい深いものがあります。

 人間釈尊が真理を悟り、その教えをもとに私たちが救われて、救われた人がまた身近で苦しむ人を救う ―― 釈尊時代からつづく、人が人を救い・救われるという仏教の歴史に照らしても、人間のすばらしさを思わずにいられません。

 ただ、一つ大切なことは、釈尊が「生まれによって聖者となるのではない。行為によって聖者なのである」といわれるように、人間の尊さは日ごろの行ないによって磨きだされるということです。道元禅師(どうげんぜんじ)は「修証一等(しゅしょういっとう)」という言葉で、悟るための手段が修行ではなくて、精進(しょうじん)するその姿が悟りの証だといっています。つまり、仏の教えを暮らしに生かす日々の精進は私たちが仏であることの証(あかし)で、その実践によって慈悲(じひ)の心を深めていくのが仏道なのです。

『春風となって』の段落では

 法華経(ほけきょう)の「薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)」は、仏の教えを身をもって実践することの大切さと、その姿が多くの人に「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の心」を発(おこ)さしめることを示しています。平たくいえば、「まず人さま」と損得勘定(そんとくかんじょう)を超えてわが身を使い、心と言葉を尽くして人を思いやるとき、その実践は自分の幸せや喜びとともに、みんなの救いにつながる光明(こうみょう)になるということです。

 これをより具体的に、「仏道修行は人びとに奉仕すること」と明言する人もいます。シャーンティデーヴァいうインド僧は、慈悲の心を行動で示すことが精進であり、仏教にほかならないといいます。そのことについて中村元(なかむらはじめ)先生は、「宗教の教えを知っているというだけでは、なんの意味もない。われわれの身体をもってする行為のどこかに具現(ぐげん)されなければなりません」と簡潔に述べています。

 教えを知っていることに意味がないわけではありませんが、困っている人にとっては、具体的に手を差し伸べてくれる行為は何よりの救いになるはずです。

 さらに、そのあたたかな思いやりを受けた喜びが、自他の命の尊さに目ざめる契機になる人もいるでしょう。一つの慈悲の実践が、人の心を真実に向かわせる手立てになるのです。そうした「慈悲の方便(ほうべん)」こそ、釈尊の願いに通じる布教伝道の原点なのかもしれません。コロナ禍のいまは、ことのほかそうした慈悲心が求められているのです。

 ただ、そのためには、できるだけ自身が慎ましく生きることが大事だと、先のインド僧はいいます。その意味では、できるだけ少ないもので満足し、何ごとにも感謝するというシンプルな生き方を忘れてはならないと思います。

 そのうえで、「願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや」(佐佐木信綱(ささきのぶつな))という歌のように、いまをともに生きるすべての人の苦悩を思い、春風のように軽やかに慈悲の心を届けられる日を待ちたいと思うのです。

と、締めくくられた。

 今月は釈尊降誕月ということで「誕生偈」を通して、自らの命の尊さを自覚して生きることを教えるのが仏教であり、その生き方は成仏に向かって精進することをお示しいただいています。

 道元禅師は「修証一等」という言葉で、仏の教えを暮らしに生かす日々の精進は私たちが仏であることの証で、その実践によって慈悲の心を深めていくのが仏道であるといっておられます。そして、会長先生より「薬王菩薩本事品」を通して、身をもって実践することの大切さと、その姿を通して悟りを求める心を発さしめることをお示しいただきました。

 いよいよこの品から法華経の実践編に入り、多くの菩薩たちが登場して、私たちに実践の手本を示してくださいます。

 この品の要旨として、薬王菩薩の前世の姿「一切衆生憙見菩薩(いっさい

しゅじょうきけんぼさつ)」の修行のあり方を通して、

〇 人間にとって自己犠牲ほど高貴な精神はない、

〇 実行こそが教えに対する最高の供養であることを教えられています。

困っている人にとっては、具体的に手を差し伸べてくれる行為が何よりの救いになる、一つの慈悲の実践が、人の心を真実に向かわせる手立てとなる、そうした「慈悲の方便」こそ、釈尊の願いに通じる布教伝道の原点とご指導いただきました。コロナ禍を乗り越えて、一日も早く直接対面して、信者さんの心配行ができることを願って今月も精進させていただきましょう。

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡