12月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『 「型」を身につける 』というテーマを
〇 「型」は方便 ・・・
〇 「型」は無我の実践 ・・・ の2段落でご解説いただいた。
まず、《 「型」は方便 》の段落では、
柔道や剣道などのスポーツ、また芸術や芸能の道で、手本となる体勢や動作のことを「型」といい、そのような世界に限らず、私たちの日常生活における身近な所作にも「型」というものがある、と会長先生は受けとめられておられます。
そして、たとえば、約束した時間を守る、三つの実践をするという所作を「型」として身につけ、日々実践することが大切。
ちなみに「所作」とは、仏教で「身と言葉と心の三つのはたらきの現われ」をさします。つまり私たちは、行ないや言葉をとおしてなんらかの心を表現している。
では、その心とは何か。どのような心を「型」として身につけることが大切なのか、それは、思いやりや慈しみの心にほかならない。その心を体現し、それを「型」として日々実践することによって、私たちは慈悲の心をさらに深く胸に刻みつけていくのです。
「型」を身につけていれば、たとえ少々、心が乱れても、すぐに思いやりや慈しみの心に立ち返れます(十界互具の展開、六道に止まらず)。
その意味では「型」は「方便」ともいえますが、しかしそれは即、思いやりや慈しみという「真実」に直結するものです。
《 「型」は無我の実践 》の段落では、
思いやりや慈悲の心が、日常生活での「型」の根底をなすとすると、その現れとしての所作・行いに「これでなければならない」といった決まりはなさそうです。この世に一人として同じ人はいないのですから、思いやりや慈しみの心を反映した「型」も、個性に従って多様であるのが自然といえるでしょう。
その意味では、仮に個性の数だけ「型」があるとしても、自分勝手な「型」は、「型」とはいいません。むしろ「自分の思いどおりにしたい」というわがままな心を抑えるために「型」があるといえるのです。
「型どおり」と聞くと、変化や工夫がないように思いますが、「型」に従って「そのようにしなさい」と、いわば問答無用で実践する( ❝ ハイ ❞ と素直に聞き、実践する)機会は、自分の都合を大切にしがちな私たちが、無理なく「無我」になれる瞬間でもあるのです。
本会の法座や読経供養、あるいは「まず人さま」の実践も、それをつづければ仏さまのような慈しみ深い人になれるという「幸せの方程式」として、本会の歴史を支えてきた大切な「型」であると思います。
と、締めくくられた・・・。
今月は「型」としての『三つの実践』、「所作」としての『身口意の三業』を清めること、『七佛通戒偈』にある、❝ 自浄其意 是諸仏教 ❞ 仏教である所以をかみしめて、しっかりと「型」を身につける三つの基本信行(「ご供養」「導き・手取り・法座」「ご法の習学」)を、❝ 急がず、休まず ❞ コツコツと続けることを決定させていただくことにより・・・
80周年へ向けての心構えとさせていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡