1月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
まず、平成30年最初のご法話ですので、今年の指針と受け止め、かみしめさせて頂きたい。
今月は、『 明るく、朗らかに 』というテーマを
〇 自らを灯として ・・・
〇 法をよりどころに ・・・ の2段落でご解説いただいた。
まず、「自らを灯として」の段落では、
元日の朝を「元旦」といいますが、これは地平線から太陽があらわれ出た姿をかたどった文字で、元朝の日の清々しい輝きを受けて、新年を迎えた私たちの身心はいきいきと発動し、一年が始まります。
そうしてはじまる一年をみなさんは、それぞれに思うところ、期するものがあると思いますが、だれにも共通するのは、一年を通して明るく、朗らかにすごしたいという願いでしょう。
そうであれば、ぜひ忘れずにいたいことがあります。それは、私たちに生きるエネルギーを与えてくれる太陽のように、まずは自ら朗らかになって、人を和ませ、喜ばせることです。ときには人に励まされ、他の人の明るさに癒されることもあるでしょうが、自ら明るく朗らかに生きるーーーそれが大切だと思います。
ただ、「生まれつき陽気な人でない限り、それは難しい」と諦め、ため息をつく人がいそうです。しかし、諦めることはありません。
仏教では、自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)と教えています。
自灯明は「自らを灯として生きる」ということですが、それは「何にも左右されない確固たる生き方の芯がある」ということです。そしてその「芯」となるのは、自分を含むすべての人が、かけがえのない命を、いま・ここに・自ら生きているという揺るぎない「信念」で、いま命あることへの「感謝」が、芯を明るく灯しつづけるのに必要な「油」といえるのではないでしょうか。
「法をよりどころに」の段落では、
「足無し禅師」と呼ばれた禅僧・小沢道雄(おざわどうゆう)師の厳しい戦争体験から、両足切断をし不自由な体での艱難辛苦(かんなんしんく)を通して、二十七歳の時に「人と比べるから苦しむのだ」「比べる心のもとは二十七年前に生まれたということだ。二十七年前に生まれたことはやめにして、両足を切断したまま、きょう生まれたことにしよう。今日生まれた者には一切がまっさらなのだ。本日ただいま誕生だ!」と思いを定め、「いつもにこやかにしていよう」「ありがとうと、必ず感謝しよう」を心がけ、温顔の仏道人生を歩まれた。
明るく、朗らかに生きるというとき、陽気な性格や環境に恵まれていても、いなくても、要は何を心の芯に据えるかが大事で、私たち仏教徒にとっては、それが仏法(ご法)であることを、小沢師が明快に示してくださっている、そしてこれが法灯明でありましょう。
また、見方を変えれば、ほんとうの明るさ、朗らかさは、苦悩を突き抜けた先にあるといえますが、苦悩を突破するには、先に述べた「生き方の芯」とともに、さまざまな思わくにとらわれないで心を一つに向かわせる「志(こころざし)」を持つことが大切。
高浜虚子の「年改まり人改まり行くのみぞ」の句のごとく、一人ひとりが「自らを新たにする」という清新な心意気をもって、明るく朗らかに一年をすごしていこうではありませんか。
・・と、締めくくられた。
今月は、教団創立80周年を迎え、100周年に向けての出発の月に、「自灯明・法灯明」の心構えをいただきました。
「自灯明・法灯明」の教えから、寿量品の「良医の譬え」を思い起こします。
子供たちが、五欲の毒に侵され、本心を失い、ただ、父である良医に救いを求めます。良医は、我が子に良薬を処方するが飲もうとしない、そこで、父は他国に出かけ、そこで亡くなったと伝え、子供たちは正気を取り戻し、薬を飲み回復した。
譬えの真意は、毒に侵されている子供たちを救うのは、父が救うのではなく、薬が解毒するので、薬を飲まなければ救われない。
つまり、「法」である薬を自らとって服する「自灯明」が重要であり、
いよいよ『 発 』、
「自ら」という主体性を発揮することを決定させていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡