8月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『敬う心と恥じる心』というテーマを、
〇 仏さまからのアドバイス 〇 「正行[しょうぎょう]」が当たり前に
の2段落でご解説いただいた。
まず、『仏さまからのアドバイス』の段落では、
今月は、「八正道」の「正行」について考えてみましょう。「正行」は、仏教の辞典で「正業[しょうごう](正しい行ない)」とも示され、「身[しん]・口[く]・意[い]の三業[さんごう]」といわれるうちの、「身の行ない」(身業[しんごう])における正しいあり方のことです。
それでは、正しい身の行ないとはどういうことでしょうか。解説書には、不殺生[ふせっしょう]、不偸盗[ふちゅうとう]、不邪淫[ふじゃいん]の三つ、すなわち「生き物を殺さない」「盗みをはたらかない」「邪[よこしま]な男女関係を結ばない」ことが、正しい身の行ないとあります。
発句経[ほっくぎょう]に「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」とあるように、自分が殺されたり、何かを盗まれたり、道ならぬ関係で苦しむ立場になることを思うと、人さまに対してけっしてそのようなことはできません。
釈尊は、私たちがこの世で味わう苦から解放される道を悟られた方ですが、何が苦悩の原因となるのかを見極められたうえで、これらを示されたのでしょう。その意味では、戒めというよりも、私たちが日々を明るく、楽しく生きるための助言と受けとめるほうが自然に思えます。「このことを忘れなければ家庭も社会も平和で、楽に生きられますよ」という、釈尊からの温かなアドバイスということです。
『「正行[しょうぎょう]」が当たり前に』の段落では
「生き物を殺さない」「盗みをはたらかない」「邪[よこしま]な男女関係を結ばない」ことが正しい身の行い――確かに、それは正しいに違いなく、殺生や盗みは法律にふれる対象でもあります。それでも、「してはならない」という禁止事項が「正しい行ない」といわれると、心理的に「正行」のハードルが高く感じられます。「戒律を守らなければならない」と意識する以前に、いつでも自然に「苦悩しないですむような行ない(正行)をせずにはいられない」ようになればいいのです。
そこでキーワードになるのは、敬う心と恥じる心です。
安岡正篤氏が「敬うという心は、言い換えれば少しでも高く尊い境地に進もう、偉大なるものに近づこうという心である。したがってそれは同時に自ら反省し、自らの至らざる点を恥ずる心になる」と述べているとおりですが、私たちにとって救いになるのは、その先です。この言葉は、こう続きます。「省みて自ら懼[おそ]れ、自ら慎[つつし]み、自ら戒めてゆく」――敬して己を恥じる心が生まれたら、おのずから至らない自分を危ぶみ、神仏の願いにそった行動を心がけるようになる、というのです。これは、「仏とその教えに帰依すれば、正行が当たり前の人間になれる」と受けとめることができます。
また、敬う心と恥じる心は、進歩・向上を求める人間の本能に通じるともいわれます。すると、つい我を忘れて道を踏みはずしそうになる私たちを、本来の人間らしい生き方に立ち戻らせるのも、この二つの心といえましょう。
「正しい行ない」とは、「敬と恥」の二つに支えられたふるまいということができそうですが、その心と行ないは、日ごろの人間関係から国家の関係に至るまで、そこに和を築く大切なものです。それは、道を見失いがちなあらゆる場面でいま、大きな力を発揮するものだとも思うのです。
と、締めくくられた。
今月は「八正道」の四つ目の、「正行」を学ばせて頂きました。
「正行」は「正業」とも示され、「身の行ない」(身業)における正しいあり方のこと、つまり、正しい行為(・はっきりした動機や目的があり ・やろうという意思をもってやった行ない ・よしあしを判断し、決意してやったこと)<行動ではない>が必ず後に残り、人生のさまざまなことがらの原因となると、「業」について教えていただいています。
おおいに善業を積ませていただき、進歩・向上を求めて、三つの基本信行に取り組みましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡