9月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『あらゆる「いのち」に奉仕する』というテーマを、
〇 感謝し、仕える 〇 正しい命の使い方
の2段落でご解説いただいた。
まず、『感謝し、仕える』の段落では、
私たちは、生きていくために必要な衣食住のそれぞれを、随時、手に入れなければなりません。そのことについて、仏教では「正しい生活法によってそれを求めるように」と説かれています。
「八正道」の5番目に掲げられる「正命[しょうみょう]」のことで、「正しい仕事によって生計を立てる」ということになります。すると、「正しい仕事」の「正しい」とは、どういうことなのか。
「仕事」は漢字で「事に仕える」と書きますが、仕えるというのは偉大な存在に随うことですから、仕事の対象となる相手や物を尊[とうと]び、敬[うやま]い、感謝の念をもって、与えられた役割に一所懸命とりくむ――そのような姿勢が、「正しい」の意味するところ。
また、平澤興先生は、「朝には、希望と張り合いをもって仕事をはじめ、夕には、その日の仕事を終わり、感謝をもって、緊張をときほぐし、静かに喜びながら、万物を拝む気持ちになることです」といわれています。あらゆるものを拝む気持ち、感謝の念は、仕事はもちろん、私たちの生活すべてにわたる「正しい」生き方の根本だということ、そして、その気持ちがあれば、不平や不満を抱くことなく、素直に、喜びをもって目の前のことに打ち込むことができる。
『正しい命の使い方』の段落では
仕事に限らず、日常生活で目の前のことに一所懸命に尽くすことが、「正しい命の使い方」ということもできそう。
「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」と、釈尊は願われました。
私たちの手に余る大仕事に思えますが、けっしてそうとはいえません。あらゆる「いのち」が幸福になるための貢献が、私たちにもできるのです。私たち一人ひとりが、暮らしの中の小さなひとコマもおろそかにしないで、「正しい命の使い方」につとめればいいのです。私たちはみな、物心共に世界じゅうのあらゆる「いのち」と、網の目のようにつながっているからです。
「八正道」について考えるとき、「正見は実践の始まりであって、また終わりである。つねに正見から外れないようにしなければならない」という一文がある。
私たちは「正見」「正思」「正語」「正行」、そして今月の「正命」の各徳目について、一つ一つそれができるかどうかにとらわれがちです。しかし、ものごとをありのままに見る「正見」がすべての基本で、慈雲尊者[じうんそんじゃ]は「見処が正しくなければ、余事はみな黒闇だ」と断言しています。
脇祖さまは、信者さんの救いに徹するなか、「朝寝坊がいけない」などの厳しい指導をされました。仏さまの教えは基本を大事にしてこそ輝き、信仰とは日々の暮らしそのものだということを教えられたのでしょう。
9月10日は、その脇祖さまの報恩会[ほうおんえ]です。
と、締めくくられた。
今月は「八正道」の5つ目の、「正命」を学ばせていただきました。
「八正道」を学んでまいりましたが、まず「正見」ができることが大前提であります。
5月号で会長先生は、「正見でものごとを見る」ことは、「天地自然のはたらきを素直に見ること、いま・ここに生きているという事実に感謝できること」と教えていただきました。
そのような見方を身につけさせていただくために、「正思」「正語」「正行」の、身・口・意 三業を清め、「正しい命の使い方」を理解し、精進させていただくことが重要だと感じさせていただきました。
脇祖さまに倣い、おおいに善業を積ませていただき、進歩・向上を求めて、三つの基本信行に取り組みましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡