12月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『 使命にめざめる 』というテーマを、
〇 道を楽しむ人に 〇 願いをもって の2段落でご解説いただいた。
まず、『 道を楽しむ人に 』の段落では、
この八か月間、「八正道」の徳目を一つずつとりあげて、私なりにその意味あいをお話ししてきました。そして今月は、「八正道」の最後に示された「 正定[しょうじょう] 」です。
「正定」とは、心が常に仏の教えに安住していて、周囲の変化によって動揺しないことと受けとめられますが、たとえ貧しくても悲観せず、そこにある幸せを精いっぱい感受する橘曙覧[たちばなあけみ](幕末のころ福井に生まれた歌人)のような心も、「正定」の一つでありましょう。
「楽しい」とか「楽しむ」という境地はほんとうに大切なもので、「八正道」の最初の「正見」について「気持ちが楽になる見方」(本年5月号)とお話ししたことにも通じます。『論語』にも「之[これ]を知る者は之を好む者に如[し]かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」とあります。人が道を修めようとするとき、その道を「楽しむ人」にはだれもおよばないというのです。
なにごとも楽しいと受けとめる ―― そういうものの見方を心がけていると、気持ちが楽になって、目先の苦に迷うことのない、ほんとうに安楽な人生を歩めるのです。
『 願いをもって 』の段落では
ところで、「八正道」の「正」という字は、「一」と「止[とめへん]」が組み合わさってできています。仏の教えの「一」といえば、もちろん「真理」であり「法」です。いわば「八正道」の各徳目は、いずれも私たちが「真理に止[とど]まる」ための実践であり、その基本となるのが初めにおかれた「正見」といえます。その意味でいえば「八正道」のすべてを修めるのは荷が重いという人も、日々の暮らしのなかで、何かにつけ、ふと省[かえり]みて「正見」に立ち返る習慣をつけることが大事なのだと思います。
こうして真理にそった生き方を求める仲間を、仏教では「正定聚[しょうじょうじゅ]」といいます。平たくいうと「仏さまのようになりたいと決意した仲間」のことですが、この言葉からは「正定」のとらえ方をさらに深めることができそうです。
仏さまのように、ものごとをありのままに見ること(正見)によって、静寂で澄みきった心(正定)を得る ―― それは「あの人の苦しみを除いてあげたい」「この人が慈悲の心を得るお手伝いができたらいいな」といった、菩薩としての願いをもって生きるということでもあるのです。
ただ、そのような誓願[せいがん]をもつに至る方法は、もちろん「正見」に限りません。「八正道」が八つの徳目に分けて示されているのも、「一人ひとりの個性にあった精進の仕方でいいのですよ」という、釈尊のあたたかな教えの示し方に違いないのです。
私たちはみな、お互いに生かし生かされています。そのなかで、仏の教えをとおして人間らしい生き方を学んだ私たちは、仏への道を歩みつつ、一人でも多くの人の仏性開顕[ぶっしょうかいけん]という使命を果たしていきたいと思います。
と、締めくくられた。
5月号からはじまった「八正道」のご指導、自行としての8項目ととらえていましたが、開三顕一では「仏性の自覚」をうながされます。仏子としての自覚から、法師の自覚に高まり、楽って法を伝える自分になるために「八正道」を身につける精進が大切であると感じさせて頂いた。そして、菩薩としての願いをもって生きる、その誓願をもつに至る方法が「八正道」であり、八つの徳目に分けて示されているのは、「一人ひとりの個性にあった精進の仕方でいいのですよ」という、釈尊のあたたかい教えの示し方と解釈されながら、会長先生の私たちに対する期待とお慈悲が、しみじみと伝わり感謝でいっぱいであります。
来年次は、姫路教会発足55周年を迎えます。教団創立100周年に向け、“ 惜しみなくつながり ―― 菩薩を育てる苗代になる ” というマザープログラムの実現に向かい、信者さんと一丸となって、しっかり布教伝道に取り組むことを誓願いたします。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡