2月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『 人を思いやる「心の習慣」』というテーマを、
◎ 得は徳に通じる ◎ すべては一つ の2段落でご解説いただいた。
まず、『 得は徳に通じる 』の段落では、
〇街の中で困っている様子の人を見かけたとき、みなさんはどうされるでしょうか。そばに寄って声をかける人も多いと思いますが、気にかけながらも、よけいなお世話かもしれないと、近づくのをためらう人もいることでしょう。私たちはふだん、ものごとを損得勘定で判断し、得にならないことには消極的になりがちです。人は、なかなか欲得ずくの心を超えられないのです。
〇損得の「得」は道徳の「徳」に通じる、といわれます。
一文の得にもならないと思われることであっても、人さまを思うがゆえの実践は、それを行う人の徳分として、人間的な成長など尊い心の財産になります。人として成長したいと願う欲得が、人間性の向上という「徳」を招き寄せるという意味で、「得」は「徳」に通じるということです。
ただ、そのことがわかっていても、困っている人を見て「なんとかしてあげたい」と願う気持ちを実際の行動に移す、その一歩を踏みだす勇気が出ない人もいます。
無量義経に、「憐愍[れんみん]の心を生じ大慈悲を発[おこ]して将[まさ]に救抜[くばつ]せんと欲し、又復[またまた]深く一切の諸法に入れ」(説法品[せっぽうほん])とありますが、これは菩薩に「目の前の人を憐れみ、思いやりの心を奮い立させて、『苦しみから救い出そう』と決心しなさい」と教える一節です。そして、そのためには「自分本位のとらわれや執着を離れて、ものごとの真実を見極めるよう精進することが大切です」と説かれています。
要するに、なかなか損得勘定を捨てられない私たちでも、精進によって欲得ずくの心を超えることができ、それが心の習慣になれば、どのようなときでも損得勘定に惑わされずに、人を思いやる気持ちを自然に行動にあらわせるということです。
『 すべては一つ 』の段落では
〇「雪が降ったら/寒かろう/冷たかろうと/お墓に/傘をさしに行く/幼子亡くした/お母さん」
このような詩の一節を目にしたことがあります。子を亡くした母親の、切ない気持ちがよく伝わってきます。それと同時に、菩薩が人を思いやる心情というのはこういうことではないか、と教えられた気がしたのです。
〇先に述べた、「自分本位のとらわれや執着を離れて、ものごとの真実を見極める」というのは、この母親のように、自分と相手を一つと見ることです。さらに、すべてを一つと見れば、人の喜びや悲しみがよくわかり、そうしてわきあがる憐みの心や慈悲の心に突き動かされて、思いやりを行動に移せるのです。「すべては一つ」という見方によって、思いやりが「心の習慣」になるということです。
以前、開祖さまの生誕地の新潟県十日町市を訪ねた時、公園に建つ開祖さまの胸像が雨に打たれているのを見て、私も師父[しふ]に傘を差しかけた覚えがあります。いつでも、だれに対しても、自然に思いやることができるよう、私もいっそう精進をしてまいりたいと思います。
ただ、至道無難禅師[しどうぶなんぜんじ]は「慈悲して慈悲知らぬとき、仏というなり」と教えています。相手と一つになれば、慈悲をしているといった意識もしないまま、その思いやりがお互いの喜びや心の成長に結ばれていくのです。
と、締めくくられた。
今月は、「無量義経」を引用され、「無量義修学の順序」をお示しいただき、「無量義は一法より生ず、その一法とは実相なり」の内容から、諸法の実相(「自分本位のとらわれや執着を離れて、物事の本質を見極める」)の解明が、「法華経」の課題であり、人としての実相、 “ 仏性の自覚 ” を1月号で会長先生は促してくださいました。
しっかりと法華経を学ばせていただくことの重要性をご指導いただき、あらためて「三つの基本信行」の実践、中でも「ご法の習学」を深めることを決意させていただいた。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡