6月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『仏の教えを習い、学ぶ』というテーマを、
○ 「習学」は日常のなかに ○ 実践してこそ「習学」 の2段落でご解説いただいた。
まず、『「習学」は日常のなかに』の段落では、
〇法華経の「方便品」には、「学習」とよく似た「習学[しゅうがく]」という言葉が見られます「諸仏の法是[かく]の如く 萬億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう 其の習学せざる者は 此れを暁了[ぎょうりょう]すること能わじ」(㊂P.82.3~4) 仏は、たくさんの手だてを使って、常にそれぞれの人にふさわしい法を説いているのですが、「習学せざる者」は、そのことに気づくことができないというのです。逆にいうと、「習学」をすれば、いつでも、そのときに自分に必要なお諭[さと]しに気づけるということです。
○仏が、私たち一人ひとりに、そのときその場にふさわしい法を説いているというのは、たとえば爛漫[らんまん]と咲くエゴノキが、ある人には生滅変化[しょうめつへんか]する無常の理[ことわり]を気づかせ、またある人には「いま」を精いっぱい生きる大切さを教える「声」を発しているということでしょう。こうした自然の摂理[せつり]をはじめ、さまざまなできごとの中に真理を感じとり、仏の声を聴こうとすることで、私たちは、自分の思い上がりや欲得ずくの考えを反省したり、生きる勇気を得たりして、また新たな一歩を踏みだします。その繰り返しを「習学」というのです。
『実践してこそ「習学」』の段落では
日々、私たちの周囲で起こるできごとは、仏が「万億の方便」を駆使して説く法にほかなりません。受けとめようとする心があれば、だれでもそれに気づくことができます。
ただ、「習学」は知識を得るものというよりも、実践を繰り返すなかで「仏の教えにそった生き方を身につけていく」ものです。たとえば、身近な人と仲たがいをしたとき、相手を責める前に「思いやりの足りなさを教えられているのかな」と学ぶ気持ちになると、素直に謝ることができるように、たとえ困難なことに直面しても、そのことから「自分は今、何を教えられているのか」を学び、前向きな実践につなげて、その生き方を自分のものにしていくのです。
とはいえ、いつでも、どのようなことも、それを仏の説法と受けとめられるほど、心が安定している私たちとはいえません。気づいたことが、すっと胸に落ちるときもあれば、疑問や迷いが心に渦巻くこともあります。 そういうとき、迷った心を再び仏の教えに向かわせるのが「ご供養」や「導き・手取り・法座」です。本会では、この二つに「ご法の習学」を合わせた三つを「基本信行」としていますが、ご供養や法座修行も「ご法の習学」の一環ですから、信仰に根ざした生活すべてが「習学」の二文字に集約されるといえましょう。
では、どうして私たちがこのように「習学」できるのかといえば、先の経文の前段に「但一乗の道[どう]を以て 諸[もろもろ]の菩薩を教化[きょうけ]して 声聞[しょうもん]の弟子なし」(㊂P.81.9~10)とあるとおり、私たちに菩薩の精神が宿っているからです。それはつまり、だれ一人として自分だけが幸せになればいいと考える人はいないということです。その意味で私たちが人さまの幸せを願って法を伝えることも大事な「習学」の一つで、自他の一体感という大きな喜びと幸せがそこにあるのです。
と、締めくくられた。
今月は、第2段落で大切なことをご指導いただいていますので、全文を掲載させて頂きました。5月号では「苦」と「苦しみ」の違いを教えていただき、自分の思い通りにしたいという我執が苦しみになるので、真理に基づくものの見方、「智慧」を身につけることが重要であることを学びました。よって、ふれるご縁を通してすべてが仏さまの説法、救いであると思えるように、『基本信行』の「先祖供養」「導き・手取り・法座」の実践を通して、ご法の「習学」を深めることの精進に一層取り組むことを決定させて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡