7月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『「自由自在」に生きる』というテーマを、
○ ほんとうの「自由」と「自在」、○ 「三界は我が有なり」の気持ちでの2段落でご解説いただいた。
まず、『ほんとうの「自由」と「自在」』の段落では
○私たちは、自分の思うままに行動できることを「自由」といい、それが「自在」な生き方だと思っています。そして、多くの人が「自由自在に生きられたら、どれほど幸せだろう」と考えます。別の見方をすれば、私たちが日ごろ、いかに不自由や不満を感じているかということです。
○仏教では欲にとらわれたり、自分の考えにこだわったりする心がすっかりなくなることを「遊戯[ゆげ]」といい、そうした何ものにもとらわれない心のありようを「自由自在」ととらえています。思い煩[わずら]いも憂[うれ]いもなく、気持ちがのびのびとして安らかな境地です。
また「自在」には、観世音[かんぜおん]菩薩を観自在[かんじざい]菩薩と呼ぶように、苦しむ人びとの声を聴いて、意のままに救うはたらきや力という意味があります。つまり、人さまを思いやり、人さまとともに向上をめざす生き方のなかに、ほんとうの「自由」があり「自在」があるということです。
『「三界は我が有なり」の気持ちで』の段落では
○法華経の「譬諭品[ひゆほん]」の一節<「経文」(㊂P.98.5~7).略>に、不自由に思うことが多く、苦難は避けてとおりたいと願う私たちに、仏は「智慧[ちえ]の楽」を与えて、本当に自由自在な人生を送らせてあげよう、というのです。では、その「智慧の楽」とは、いったいどんなものでしょうか。
たとえばいま、目の前に、おにぎりが2つあるとします。あなたに与えられたものです。ところが、まわりにはあなたと同じくらいお腹を空かせた人が4人もいます。
「諸苦[しょく]の所因[しょいん]は 貪欲[とんよく]これ本[もと]なり」(㊂P.109.7~8)と経典にありますが、もらったあなたが一人で食べたいと思う気持ち(貪[むさぼ]り)も、もらえなかった人たちがそれを恨[うら]んだり妬[ねた]んだりする感情(怒り)も苦悩の一つです。だからといって、足りないぶんのおにぎりを仏にプレゼントしてもらうのが「智慧の楽」ではないでしょう。そうではなくて、その不足がもたらす苦悩を、自他の向上につながる楽しみや喜びとして受けとめるようになるのが「智慧の楽」ということです。
○目の前にある小さな幸せをかみしめたり、喜びを人と分かちあったりすることで、苦悩を楽しみに変えていく――それが、本当に「自由自在」な生き方だと思います。
また「譬諭品」には「今此の三界は 皆是れ我が有なり」(㊂P.107.8~10)とあります。私たちはそれぞれに独自の尊い命を生きながら、大自然の一部としてすべてと調和し、生かされています。それは、宇宙全体が私と一体であり、我がものだということです。先の一節は、「このことがわかれば、いつでも智慧と慈悲に満ちた行ないができますよ」と私たちを励まし、そうあってほしいと願う仏からのメッセージなのです。
そのことをふまえて、一つお尋ねします。みなさんなら、先の二つのおにぎりをどのようにされるでしょうか。
と、締めくくられた。
お釈迦さまが「方便品[ほうべんぽん]」において、いよいよ悟られた真理「諸法の実相[じっそう]」を説かれ、仏知見[ぶっちけん]の「開示悟入[かいじごにゅう]」のためにこの世に出現され、人間の実相は“仏性”であることの自覚を促されました。そして、仏知見を身につけるための行法は、菩薩行であるとお示し頂きました。
今月のご法話は、その「方便品」の説法を受けて、「譬諭品」に入って舎利弗[しゃりほつ]が、自分だけが悟ればそれでいいと思っていた思いを懴悔[さんげ]し、救われた喜びを共に味わうという、菩薩行の精進を誓い、授記[じゅき]をいただきました。
凡夫[ぼんぷ]の心から、貪欲を滅するための菩薩行に向かう、本質的な救われに向かって精進する菩提心を起こすことの大切さを、6月号「やくしん」のご法話でもご指導をいただきました。
下半期に向けて本質的な救われを目指して、本当に生き甲斐のある人生を歩んでいけるよう、教えを学び、実践させて頂きましょう。
そして、会長先生のご法話の最後の質問にみなさんはどのようにお答えになるか、みんなで考えましょう!
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡