12月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。
今月は、『弁を尽くす』というテーマを、◎ 言葉の力 ◎ 富楼那[ふるな]に学ぶの2段落でご解説いただいた。
まず、『言葉の力』の段落では、
人間が生まれもって授かった心、すなわち「人」としての素朴な感情や意思を、言葉を使ってまわりの人に伝え、コミュニケーションを繰り返すなかで「人間らしい心」が育ってきた。
言葉の力はそれくらい大きいわけですが、その一方で、詩人の寺山修司氏は「現代人が失いかけているのは『話しあい』などではなくて、むしろ『黙りあい』だ」と指摘しています。言葉の発達に心の成長が追いつかないのか、あるいは心が退化しているのか、言葉が人を傷つける道具として使われることも多いのです。言葉の力が大きいだけに、多くを語ることよりも、いまは沈黙のうちに自らを省みることのほうが重要なのかもしれません。
では、人とよりよい関係を築くために、私たちは何をどのように話し、伝えることが大切なのでしょうか。
『富楼那に学ぶ』の段落では
法華経の「五百弟子授記品[ごひゃくでしじゅきほん]」に、説法第一といわれた富楼那に対して、釈尊が「能[よ]く其の言論[ごんろん]の弁を尽くすものなけん」(富楼那ほど言葉の力を最大限に駆使し、発揮できるものはない)と称える一節があります。「この人に幸せになってもらいたい」という一心で教えを伝えた富楼那の言葉は、よほど強く人びとの心に響いたのでしょう。
「言論の弁を尽くす」というのは、知識や才能にすぐれた人が、立て板に水のごとく話すことではないのでしょう。
それよりも大事なのは、相手の顔が自然とほころぶような柔和な態度で、思いやりをもって言葉を交わすことです。そうすれば、おのずから話しかける言葉もやさしくなって受け入れやすいものとなり、それが相手の心に届くということではないでしょうか。相手を思う気持ちがあれば、目の前の人の心情はもちろん、生活環境などにも配慮してふれあうでしょうから、その時に伝える言葉は、富楼那に負けないくらいの力を発揮するのだと思います。
ただ、私たちにとってハードルが高いと感じるのが、「大切なことをだれにもわかるように」伝えるという部分です。
作家の井上ひさし氏は、言葉の使い方について「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく」と述べていますが、釈尊の時代から現代に至るまで、人にものごとを伝える基本はあまり変わらないのかもしれません。
そこで、これも作文の書き方に関する井上氏の言葉ですが、「単純に、わかりやすく」「自分にしか書けないことを、自分の文章で」という二つが参考になります。
私たちは、自身の体験であれば自分の言葉で語ることができます。味わった感動や気づきならば、素直に話せます。
完璧な人はいませんから、教えの何たるかがよくわからなくても、わからないまま、「ありがたい」「うれしい」という気持ちとともに、自分の理解に応じて話すことが、「大切なことをだれにでもわかるように」伝えることなのです。
今年、あなたはどのような感動を味わったでしょうか。そして、どんな「大切なこと」を人にお伝えしますか。
と、締めくくられた。
五百弟子授記品には、「化城諭品[けじょうゆほん]第七」までの説法によって高い境地に導かれたことを見通された釈尊が十大弟子のひとり富楼那をはじめ、たくさんの弟子たちが成仏の保証を与えられたことが述べられています。富楼那は説法第一と言われ、弁舌に優れた人でした。しかも自分の偉さを見せびらかすことがなく、凡俗[ぼんぞく]と同じような生活をしていましたし、またおとなしそうに見えても、心の中には本当の意味の勇気をもっている、まことに偉い人でした。
富楼那の半歩主義と言われている。
11月号では、まず自分がどのような人間になりたいかという「心願」が大事、多くを語るより、当たり前のことをなおざりにせず、日々をていねいに生きることを説かれましたが、「この人に幸せになってもらいたい」という相手を思う気持ちがあれば、その言葉は強く人々の心に響くでしょう。やはり、言葉かけも大切ということを学びました。一年の締めくくりの月、悔いなくしっかり精進させて頂きましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡