令和2年1月度 教会長のお話

 令和2年1月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。

今月は、『ほんとうの自分に帰る』というテーマを、◎ 一年をどうすごすか ◎ 素直に、謙虚に の2段落でご解説いただいた。

 まず、『一年をどうすごすか』の段落では、「かたちなき時間といへど一年が ゆたけきままにわが前にあり」(佐藤佐太郎)という歌があります。新たな年を迎えた私たちの前には、まさに

豊かで、まっさらな「時」が広がっています。

 そして、この一年を真に豊かなものにするのは、ほかでもない、私たち自身です。日々に出会う人やものごとは、すべて、自分が因となり、縁となって生じているものです。さらにいえば、遠い世界のできごとでさえも、自分と無縁のことは一つもないと受けとめれば、どのような一年にするかは、すべて自分にかかっているといえるのです。

 それはまた、一年をかけて自分をどのように成長、進化させていくかということでもあるでしょう。

 さて、法華経の「授学無学人記品[じゅがくむがくにんきほん]」は、釈尊が一子・羅睺羅[らごら]や、侍者としてつねに付き随う阿難[あなん]に対して授記を与える章です。羅睺羅の授記[じゅき]に際して、釈尊は「羅睺羅の密行[みつぎょう]

 唯我のみ能くこれを知れり」と称えています。増谷文雄先生は、羅睺羅について、舎利弗[しゃりほつ]のような智慧[ちえ]に恵まれているわけでもなく、富楼那[ふるな]のように雄弁でもなかったけれど、「彼を見守る人々の苦心と、彼じしんの必死の努力によって、密行すなわち教団のさだめをることにおいては、もっとも綿密な修行者」にまで成長したと述べています。

 舎利弗や富楼那のような智慧や才能の持ち主を尊敬する一方で、特別な才に恵まれていなかった羅睺羅に対して、共感を覚えるのは私だけではないと思います。そして、私たちが自身の成長や進化を考えるうえで、羅睺羅の努力とはどのようなものであったのかも気になるところです。

 『素直に、謙虚に』の段落では

 「密行第一」が羅睺羅に対する尊称です。しかし、そう称えられたのは、舎利弗をはじめとする先輩たちの指導や助言を素直に聞き、謙虚になって、人が見ていないときでもひたすら教えを学び実践しつづけたからだと、私は思います。釈尊の長男として生まれ、世俗にあったときには、父である釈尊に「王宮の財産を私にください」と語った羅睺羅が、出家して法を継ぐことが人生の大事だとわかった時から、身を慎み、常に「素直であろ「謙虚であろう」と心して、ただただ静かに精進を重ねる姿が、「密行」、つまり羅睺羅の努力だったと思うのです。

 そこには、財を貪る心も、自分の境遇を恨む思いも、釈尊の肉親であることを驕る気持ちもありません。「密行」を重ねるなかで、羅睺羅は全ての人が生まれながらに授かっている仏性の有り難さにめざめ、貪・瞋・痴などの煩悩を離れた、「ほんとうの自分」に帰ったということです。

 そしてだれもが、その真実の自分に帰ることができます。お互いさま、素直さと謙虚さを忘れず、一日一生のつもりで、精いっぱい明るく和やかな一年にしてまいりましょう。

 と、締めくくられた。

「法華経」は「仏性の自覚と菩薩行の実践」が説かれていると教えていただいています。

 会長先生は、昨年から「佼成」のご法話で、法華三部経一品一品を丁寧にご解説頂き、釈尊の目の前の人一人ひとりをいかに救うかという思いを具体的に教えていただきました。

 今年の初めに「開三顕一」の最後、「授学無学人記品」によって、仏性の自覚に立った立場で、いよいよ、法師としての実践を誓願するために、羅睺羅の「密行」をお示しいただいたと受けとめます。『素直に、謙虚に』の段落の内容をしっかりとかみしめ、今年も、「惜しみなくつながろう~菩薩を育てる苗代となろう~」のマザープログラムを実践し、教団100周年・教会60周年に向け、教会一丸となって布教伝道に取り組みましょう。

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡