令和2年2月度 教会長のお話

 令和2年2月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、感じたことを書かせていただきます。

今月は、『生きがいをみつけよう』というテーマを、 

 ◎ 「お前も、死ぬぞ」 ◎ 生きる意味とは の2段落でご解説いただいた。

 まず、『「お前も、死ぬぞ」』の段落では、

 二月は、涅槃会[ねはんえ]の月です。涅槃会は、釈尊ご入滅の日とされる2月15日に、仏教徒がそのお徳をたたえ、仏の教えの学びを深める日ですが、では、ご自身の「死」をとおして、釈尊は私たちに何を伝えられたのでしょうか。

私は、「生きとし生けるものは、みな、いつか必ず死を迎える」という実相[じっそう]を示されたのだと受けとめています。

仏教では「生死一如[しょうじいちにょ]」といいますが、生きることと死ぬことは、一セットです。生があり、死があってこそ「命」なのです。ところが、私たちはその一方の「死」を、なかなか受け容れられません。多くの人にとって「死」は、恐ろしくて、避けてとおりたいものといえるでしょう。しかし、だからこそ釈尊は、「お前も、死ぬぞ」と、この世の実相を、身をもって語りかけてくださったと思うのです。

 ただ釈尊は、もちろんご自身の死をとおして、そのことだけを教えているわけではないと思います。生まれては死に、死んでは生まれ、という「いのち」の大きな流れのなかで、私たちが人としてこの世に生まれ、生きる意味をも教えているといえないでしょうか。つまり、ただ死ぬためだけに生まれてきた人は、一人もいないということです。

 法華経の法師品[ほっしほん]に「衆生を愍むが故に此の人間に生ずるなり」とあります。この経文に照らせば、悩みや苦しみの絶えない私たち人間を見かねて、釈尊がこの世にお出ましになったと受けとめることができます。そして、それは釈尊だけではないはずです。そのことをふまえて、つぎに私たちの生きる意味について考えてみましょう。

 『生きる意味とは』の段落では、

法師品には、苦しみの多いこの世に、私たちは願って人間として生まれてきたというのです。見方を変えると、苦難もあれば喜びもある娑婆[しゃば]世界だからこそ、そして、私たちが真理や実相をつかむことのできる人間であればこそ、いまここに生きているということになります。

 身近な人や家族、あるいは自分が、病気をしたり、亡くなったりするのは、ほんとうにつらく、悲しいことです。ただ、そのつらさや悲しみやおそれを心底味わうと、真実を見る目が開かれます。それは、苦しみ、悲しみ、つらさそのものが、救いのいとぐちになるということです。

 そして、ここでいう「救い」というのは、たとえ人生のどん底であえいでいるときでも、そこに生きる意味や生きがいを見出し、前向きの力に変えていくことです。

 救いとか生きがいといっても、おおげさに考えることはありません。ささやかでも、あなたにしかできないことを喜びとして、それがまわりの人に喜ばれる、といったことです。それが、生きる意味や生きがいの核心ではないでしょうか。

 私たちは、運命という自分ではどうにもならないことを、一つ一つ受け容れながら、そのつど前向きな価値を見つけて生きていくことが大切なのです。

 それは、悟りとも気づきともいえるものですが、その繰り返しが人生なのでしょう。良寛は「世の中に何が苦しと人問[と]はば 御法[みのり]を知らぬ人と答えよ」と詠んでいますが、仏の教えをいただく私たちは、いつ、どのようなときも、生きがいをもって生きる法をすでに頂戴しているのです。

と、締めくくられた。

 「佼成新聞」(1/5付)、「御親教」のお書初めで、「尋常」(つね日ごろをたずねる)。私たちは、何のために信仰をしているのか、つねに足元をふり返ることが大切と、会長先生からお示し頂きました。また、信行方針の「即是道場[そくぜどうじょう]」にもふれられ、その精神は、困難に出遭ったときには「人間として成長するきっかけを頂いた」「ここが踏ん張りどころだ」という受け取り方をし、身を置く所すべてが道場と思い、目の前のことに最善を尽くすこととご指導頂きました。

 今月は、節分を迎えます。いよいよ七赤金星の年になりました。あらためて、お互いの今年の精進目標を設定する参考に法師品の「願生此間」この世に生まれてきた意味の自覚と、「五種法師[ごしゅほっし]」の実践を確認させて頂き、今月といわず、今年一年、一所懸命精進させて頂きましょう。

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡