令和2年5月度 教会長のお話

 令和2年5月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。

 今月は、『悠々として、心安らかに』というテーマを、

 ○ 妙好人・石見の善太郎  ○ 楽しく仏道を歩む 

 の2段落でご解説いただいた。

 まず、『妙好人・石見の善太郎』の段落では、

 現在の島根県浜田市に、近重善太郎[ちかしげぜんたろう]という妙好人[みょうこうにん]がいました。江戸時代の、終わり近くのことです。

妙好人というのは、白蓮華[びゃくれんげ]にたとえられるほど清らかな人柄の、信心深い念仏者のことです。若いころは素行が悪く、村人から「毛虫の悪太郎」と呼ばれていたその人が、やがて阿弥陀さまの信仰に目ざめ、多くの人から「石見[いわみ]の善太郎さん」と敬愛されるようになったのです。

 ある日、その善太郎を信仰仲間が訪ねてきました。本山参りの際に一泊させてくれた同朋で、善太郎は笑顔で迎えますが、その人はいきなり善太郎をどろぼう呼ばわりして、激しく罵ります。着物を盗んで持ち去ったというのです。

 すると善太郎は、身に覚えがないにもかかわらず、「それは悪うございました」と丁重に詫びて、着物の代金を渡したうえ、「何もありませんが、せめて草餅をおうちの人に」と、仏壇に供えた草餅を包んで土産に持たせました。

 信仰仲間が家に帰って、みんなで草餅を食べようとした時です。その家で働く娘が、なぜかうつむいたまま、手にもとりません。「どうして食べないのか」。主人がそう尋ねると、娘は「善太郎さんが盗ったと話しましたが、あの着物を盗んだのは私です」と、罪を打ち明けたのです。

 さて、もしもみなさんが善太郎さんと同じ立場におかれたら、この事態をどのように受けとめ、対処するでしょうか。

 『楽しく仏道を歩む』の段落では

 この話のように、やみくもに人を非難したり、人の話も聞かずに自己主張したりする人には、できれば会いたくありません。まして、どろぼう扱いされたりすれば、冷静に受けとめられないのがふつうです。

 その意味でも、善太郎さんの対応には感心するばかりですが、では、どうして何も釈明しないまま、善太郎さんは事態を受け入れることができたのでしょう。

 私は、「阿弥陀さまにすべてをおまかせしている」という、善太郎さんの絶対的な「信」によるものではないかと思います。「やましいことは何もない。仏さまはすべてご照覧[しょうらん]なのだ」。そうした、悠々[ゆうゆう]として安らかな気持ちがあればこそ、あのように受けとめることができたのでしょう。

 「いう人もいわれる我ももろともに 同じ蓮[はちす]の台[うてな]なるらん」という道歌がありますが、仏の前ではすべての人が平等ですから、その場で身の正しさを申し立て、相手をやりこめるのはつまらないこと、と考えたのかもしれません。

 法華経の「勧持品[かんじほん]」に「我身命[われしんみょう]を愛せず 但無上道[ただむじょうどう]を惜しむ」という言葉があります。信仰者の強い意志を示す一節ですが、この言葉は、命さえ惜しくないという意味だけではないと思います。いま、この地球に生まれて生きている奇跡に気がつけば、「自分さえよければいい」と自己に執着している場合ではない、生かし生かされあう縁[えにし]に感謝することが大事なのだ、という意味にも受けとれます。

 「但無上道を惜む」は、そのような感謝に目ざめたら、一人でも多くの人と感謝の気持ちを共有しよう、ということではないでしょうか。法華経の教えによって感謝に目ざめた私たちであれば、その教えを人に伝え、生きる喜びと感謝をともどもに味わおうと、一歩を踏み出すことです。

 ただ、それは相手を変えようとか、説き伏せようとするものではないと思います。喜びをもって仏の教えを実践し、人びとと心楽しくふれあうなかで、いま命あることの有り難さに目ざめてくれる人がいれば、それでいいのです。

 先の善太郎さんの話は、「草餅説法」といいます。娘さんの心を解かした妙好人のあたたかさに、悠々として、心安らかに生きる信仰者の神髄を見る思いがします。

と、締めくくられた。

 今、世界中が「コロナ」の終息に向かって、取り組んでいます。それぞれの立場の方々が一所懸命努力しておられます。

 特に医療従事者の皆さんの努力こそ「我身命を愛せず」との菩薩の姿に思え、合掌せずにはおられません。仏さまの教えによって救われた我々は、その感謝を、今こそ三宝帰依の精神に込めて、仏さまへの絶対なる「信」を深めるべく、悠々と「即是道場」の会長先生のご指導を実践してまいりましょう。

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡