令和2年11月度 教会長のお話

 令和2年11月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。

 今月は、『「ありがたい」といえる幸せ』というテーマを、

 ○ 随喜(ずいき)の心、○ 私たちが「感謝」できるのは 

 の2段落でご解説いただいた。

 まず、『随喜の心』の段落では、

 法華経の『随喜功徳品(ずいきくどくほん)』には、教えを聞いて心から歓喜した人が、その喜びを別の人に伝えることの功徳が説かれています。教えを聞いて、心から「ありがたい」と受けとれば、それをだれかに伝えたくなります。そうして人から人へとその感動と喜びが伝わり、五十番めに聞いた人が「ありがたい」と感じるその功徳はとても大きく、ましてや、最初に随喜の心を起こした人が得る功徳は計り知れないというのが、よく知られる「五十展転(ごじゅうてんでん)」の教えです。

 ただ、この「随喜」という言葉には、「他人の善い行ないを見て、心に歓喜を生じること」という意味があります。

 みなさんも、善い行ないをしている人を見たり聞いたりしたときに、心を動かされることがあると思います。

 災害に見舞われた地域の復興に協力するボランティアの人や、新型コロナウイルスに関連して、懸命に尽力される医療従事者のみなさんの姿を報道などで見るたびに、敬意とともに感動を覚える人も多いのではないでしょうか。

 また、日常ふと目にした何気ないひとこまが、胸にさわやかな喜びと余韻(よいん)を運んでくれることもあります。

 新聞で読んだのですが、電車の中で2歳くらいの女の子が、乗客一人ひとりに、ちょこちょこと歩み寄ってはペコリと頭を下げ、あいさつをしてまわる様子が語られていました。走行中の車内を歩かせるなんて、と目くじらを立てる人は一人もいなくて、その無垢(むく)な姿にみんなが心を動かされ、車内があたたかな空気に包まれたというのです。

 では、医療従事者にしても、電車内の童女にしても、そのような光景を見たときに、私たちがどうして感動したり、心を癒(いや)されたり、喜びを覚えたりするのでしょうか。

それは、童女と同じ無垢な心や、苦しむ人を助けたいという医療従事者と同じ気持ちが、私たちにもあるからです。実際に行動していなくても、善い行ないに心を打たれたとき、自分はもうそこに参加しているのです。あとは、その思いをどう体現するか、ということかもしれません

 『私たちが「感謝」できるのは』の段落では

 人それぞれに個性も違い、気力・体力や立場も違いますから、人によってできることは異なります。ですから、たとえば、だれもがスーパーボランティアといわれるような方のまねはできないでしょう。ただ、感動や歓喜を生きる力に変えたり、すばらしいできごとに出会って「ありがたい」と感謝したりできるのは、人間独特の感性といわれます。

 しかし、よく考えてみると、人間以外の動物や植物は、感謝することはできなくても、それぞれの役割を全うしつつ、大きな調和を保って生きています。心をもつ人間だけが、嫉妬や怒りや欲に迷い、ときに不調和に苦しみながら生きているのです。つまり、人間が感謝できるのは、そのことによってこそ、大自然と調和できるからだとはいえないでしょうか。私たちが自らの心の調和を保ち、家庭や社会でみんなと仲よく生きるには、いつも「ありがたい」と感謝できる人間になることが大切である、ということです。

幸いなことに、私たちは、何ごとも素直に「ありがたい」とか「うれしい」と受けとめることで、ほんとうの心の安らぎが得られることを知っています。そして、お金や地位があろうがなかろうが、いつでも幸せを感じられる、ほんものの人間になりたいと精進しています。

 その感動と感謝が凝縮(ぎょうしゅく)された一節が、法句経(ほっくぎょう)の「人の生(しょう)を受くるは難(かた)く やがて死すべきものの いま生命(いのち)あるは有り難し」でしょう。命をいただき、いまここに生きる人間の本質的な喜びを、「五十展転」さながら、素直に人に伝えていくとき、まことの幸せが広がるのです。

 と、締めくくられた。

「随喜功徳品」は、「初随喜(しょずいき)」の功徳をさらに強調し、くわしく説かれています。教えに随喜する、すなわち心から「ありがたい」と感ずるその感激が、信仰にとって欠くことができない根本の要素であります。

「ありがたい」という感激が起こらなければ、いかに万巻の経典を読み、あらゆる教理をそらんじていても、それは仏教学に通じているだけであって、仏を信じているとはいえません。随喜の念があってこそ、信仰といえるのです。

釈尊は、その随喜を感じた人が、どんな所でもいいから、いま聞いた教えを聞いたとおりに、まわりの人に向かって、自分の力の限りの程度でいいから話してあげると、それを聞いた人が随喜の心を起こして伝えると、それが五十回くりかえされてもその功徳は大きいものがある。と、説かれます。「開祖さま生誕会(せいたんえ)」を喜びをもってお迎えし、救われたれた感激を多くの人にお伝えすることで、報恩感謝の実践とさせて頂きましょう。

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡