令和2年12月 教会長のお話

 令和2年12月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。

 今月は、『清々しい毎日をおくる』というテーマを、

 ○ 「即ち是れ道場なり」、○ 心がきれいになると 

 の2段落でご解説いただいた。

 まず、『「即ち是れ道場なり」』の段落では、

 今年は、私たちのだれもが、これまでの生活スタイルを変えざるを得ない状況に見舞われた一年でした。それは、もちろん新型コロナウイルスの影響によるものです。

 みなさんのなかには、ウイルスに感染した方や、身近な人を亡くした方がいるかもしれません。そうした多くの人の身心の痛みが、この病気への不安とともに、一日も早くなくなることを祈っているのは私だけではないでしょう。

 ただ、生活スタイルがどう変わろうとも、忘れてはいけないことがあります。

 「法華経の信仰に生きる人の生活の場は、どのようなところでも、そこが道場である」、「法華経で修行とは、私たちの日常生活の最中(ただなか)である」(久保田正文(しょうぶん)師)といいます。

 その意味でみなさんは、このコロナ禍にあって、仮に不安や恐れを感じるときでも、思いやりを忘れずに人とふれあってきたでしょうか。自粛警察(じしゅくけいさつ)という言葉も生まれましたが、自分とは違う意見の人の姿勢をも理解し、やさしく、柔軟(じゅうなん)に受けとめられたでしょうか。「即(すなわち)ち是れ道場(どうじょう)なり」ですから、そういう日常の一つ一つが精進(しょうじん)の機会なのです

 『心がきれいになると』の段落では

 法華経の「法師功徳品(ほっしくどくほん)」には、生きる姿勢や日々の言動をとおして法華経の教えを実践し、世に弘(ひろ)める人は、六根(ろっこん)(眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い))が清らかになるとあります。

 「六根清浄(しょうじょう)」といえば日本ではよく、この言葉を唱えながら山に登ります。空気も景色もきれいな自然に包まれて山頂をめざすとき、だれもが身も心も洗われていく ―― それは、山そのものが放つ霊妙(れいみょう)な神気(しんき)と、山をつかさどる神仏のはたらきをいただいて、五感が研(と)ぎ澄まされ、自分本来の無垢(むく)な心をとり戻すということかもしれません。

 しかし、私たちは、登山をしなくても、清くおだやかな気持ちでものごとを受けとめ、毎日を清々(すがすが)しくすごす方法を知っています。その一つが、「即是道場(そくぜどうじょう)」の実践でしょう。

 人の善いところが見えて悪いところを探す気持ちが起きない。なんでもおいしくいただける。読経供養(どきょうくよう)が習慣となり、人に会うと思わず合掌(がっしょう)してしまう。こういうことを無意識のうちに行なっているとすれば、きれいな心で円満な毎日をおくっているといえるのではないでしょうか。

 私の恩師である坂本幸男(さかもとゆきお)先生は「われわれの日常生活がそのまま仏道修行であり、それが同時に仏作仏行(ぶっさぶつぎょう)、すなわち仏の衆生救済(しゅじょうきゅうさい)の活動である」と述べています。すると、私たちは日々の精進を重ねながら、同時にその実践によって救われているといえます。心にわだかまりのない、すっきりとした幸せをつねに味わっているということです。

 「法華経を持(たも)つ者は 意根浄(いこんきよ)きこと斯(か)の若(ごと)くならん 未だ無漏(むろ)を得ずと雖(いえど)も 先ず是(かく)の如き相(そう)あらん 是の人此の経を持(たも)ち 稀有(けう)の地に安住して 一切衆生(いっさいしゅじょう)の 歓喜して愛敬(あいきょう)することを為(え)ん」(法華経の教えを持(たも)つ人は、心が清浄なためにさまざまなはたらきができて、たとえ迷いがすっかりなくなっていなくても、高い境地に心安らかにとどまり、多くの人に親しまれ、敬(うやま)われることでしょう)

 この「法師功徳品」の一説が、これまでお話ししてきたことをはからずも端的(たんてき)に示しています。しかも、ここで仏が語りかけている相手は「常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)」です。勝手な解釈をすれば、釈尊が私たちに「いつでも、どこでも、だれに対しても、思いやりとやさしさ、そして温かな気持ちを忘れない菩薩であれ」と励ましてくださっているようです。

 年末になると、どこのご家庭でも大掃除をしますが、清々しい気持ちで新年を迎えるためには、私たち自身も心の煤払(すすはら)いが必要でしょう。この一年をふり返るとき、あなたの胸には、仏のどのような励ましの声が届くでしょうか。

と、締めくくられた。

 寿量品の説法の後、本仏の寿命の無量(永遠)であることを感得できたものの心にいただく功徳を、分別・随喜・法師功徳品としてお示しいただきました。

 分別功徳品では仏の寿命の無量であることをしっかり悟ったものへ、十二に分別して功徳を説かれ、

 随喜功徳品では初随喜の功徳について、その感激は五十展転しても変わらないとお示しいただき、

 特に法師功徳品では、法師の自覚に立たせて頂いているものが取り組む「五種法師」の行が、六根それぞれに受ける功徳について詳しくお説きくださいました。そして、その功徳とは六根が清浄にならせて頂けるということです。

 十七・十八・十九の三品はいずれも功徳品であります。心にいただく功徳を感謝でいただき、清々しい気持ちで新年が迎えられるよう心の煤払いをすべく、善いことを、心を込めて繰り返す精進をお誓いいたしましょう。

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡