令和3年5月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『ていねいに暮らす』というテーマを、
○ 分別をしない、○ 他者を思うことで
の2段落でご解説いただいた。
まず、『分別をしない』の段落では、
私たちは、朝起きてから寝るまでのあいだ、その行動の多くを、知らずしらずのうちに「大事なことと、そうでないこと」に分けて暮らしているのではないでしょうか。ご供養(くよう)はおろそかにできないけれど、家族とのあいさつはいいかげんになりがち・・・・・・といった具合に。
「一大事(いちだいじ)と申すは、今日ただいまの心なり」と喝破(かっぱ)したのは、正受(しょうじゅ)老人の名で知られる禅僧の道鏡慧端(どうきょうえたん)ですが、朝起きて家族にあいさつをすることも、顔を洗うことも、そのあとでご供養をし、仕事に出かけて商談することも、一つ一つどれも「一大事」なのです。その行ないに心を注ぎ、ていねいにとりくむことに変わりはないということです。
ところが、それがなかなかできないのは、単に忙しいからというだけではなくて、私たちがものごとを「分別(ふんべつ)」しているからです。ほんとうはどのようなことにも意義や価値があるのに、「これは念入りに」と注意を払うものがある一方で、「あれは気を抜いても大丈夫」と自分に都合のいい判断をしたものについては、心のこもらない言葉や行動となってあらわれたりするのではないでしょうか。
以前、「花の美しさに序列(じょれつ)はない」という言葉を教えていただいたことがありますが、表面的な価値や好き嫌いを離れて見れば、どれもこれも大事なこと、大切なものとして受けとめていけるということでしょう。
そもそも正受老人の「正受」は、「自分の考えを離れて一つのことに集中する」ことを意味する「サマーディ」(三昧(さんまい))の漢訳ですから、「今日ただいま」の行動に集中するには、自分の都合をいったん忘れることが大切なのです。
『他者を思うことで』の段落では
また、別の角度でていねいな暮らし方について考えてみると、たとえばわが家では、冬期などに給湯器(きゅうとうき)のスイッチを入れてお湯が出てくるまでのあいだ、蛇口(じゃぐち)から出てくる冷たい水を流れるがままにせず、別の容器に汲み置いて加湿器などで使います。少しの水も無駄(むだ)にしないこうした工夫も、ていねいに暮らすことに通じることの一つかもしれません。これは、水にかぎらず、ふだん気にも留(と)めないことに少し心遣(こころづか)いを加えると、それがより生かされるということにも通じます。
あるいは、短歌や俳句などにふれることも、日常の一瞬に目を向け、生活の周辺に心を留める訓練になりそうです。「若葉さすころはいづこの山見ても何の木見ても麗(うるわ)しきかな」(橘暁覧(たちばなのあけみ))。いまの季節をうつす明るい歌ですが、このように四季の彩(いろど)りや変化に目を向けることが、平凡な暮らしのなかにある幸せをかみしめることにもつながって、いまこのときを愛(いと)おしく思い、大切にする心を育てます。
ただ、それでもまだ漠然(ばくぜん)と「ていねいに暮らそう」と考えるだけでは、いままでの生活習慣に流されがちな私たちです。その場その場の所作や行動を、おのずからていねいなものにするにはどうすればいいのでしょうか。
法華経(ほけきょう)の「妙音菩薩品(みょうおんぼさっぽん)」には、妙音菩薩が数多くの三昧を得たことが示されています。その三昧の根底には、どれにも菩薩の願いがあります。「縁のある人だけではなく、縁のない人まで救おう」「松明(たいまつ)が周囲を照らすように、智慧(ちえ)の光で人びとを明るく照らそう」と精神を集中する、そういう三昧を得たというのです。つまり、近くにいるだれかの役に立ちたい、遠い国のだれかを喜ばせたいといった願いがあれば、洗顔一つにも心をこめるような、ていねいな生き方をせずにはいられなくなるということでしょう。
何を見ても「麗しきかな」と受けとれる情感とともに、いつでも幸福感あふれる日々がそこにあります。
と、締めくくられた。
私たちは知らずしらずのうちに「大事なことと、そうでないこと」を分別しています。それは自分中心なものの見方・考え方が根底にあるからでしょう。そこで、会長先生は今月、一日の行動の一つ一つのどれにも心を注ぎ、ていねいに取り組み、「今日ただいま」の行動に集中する、そのためには、自分の都合をいったん忘れることが大切とご指導くださっています。
その自己都合を忘れるためには「他者を思うこと」に集中する(三昧を得る)ことをお示しいただきました。
「妙音菩薩品」には、妙音菩薩が数多くの三昧を得たことが示されていますが、その三昧の根底には、どれにも菩薩の願い(「近くにいるだれかの役に立ちたい、遠い国のだれかを喜ばせたい」)があります。その願いが精神を集中させ、洗顔一つにも心をこめるようなていねいな生き方ができるようになる。そして、何を見ても「麗しきかな」と受けとれる情感が身につき、いつでも幸福感あふれる日々がおくれる、とご指導くださいました。その理想の境地に向かって、一歩でも近づけるよう精進させていただきましょう。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡