令和3年7月度 教会長のお話

 令和3年7月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。

 今月は、『慈しみの眼をもって』というテーマを、

 ○ 「慈眼をもって衆生を視る」とは、○ 足元を照らす灯に 

 の2段落でご解説いただいた。

 まず、『「慈眼をもって衆生を視る」とは』の段落では、

「慈眼(じげん)をもって衆生(しゅじょう)を視(み)る 福寿(ふくじゅ)の海無量(うみむりょう)なり」 ―― 法華経(ほけきょう)「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぽん)」の名句として知られる一節です。

 慈悲(じひ)の眼(まなこ)で衆生を視れば無量の福が聚(あつ)まるというのですが、慈悲の眼で世間や人びとを見るとは、どのようなことを大切にする見方なのでしょうか。

 六月号の本欄でご紹介した詩人の山尾三省(やまおさんせい)が、「観世音菩薩」という詩で、その答えともいえる仏の教えの真実をやさしく説き明かしています。作品の一部をご紹介しましょう。

 「観世音菩薩 というのは/世界を流れている 深い慈愛心のことであり/わたくしの内にも流れている ひとつの/深い慈愛心のことであるが/(中略)/一人の人が ぼくに喜びを与えてくれるならば/その人は 観世音菩薩なのであり/一本の樹が ぼくに(なぐさ)めを与えてくれるならば/その樹は まごうかたなく観世音菩薩なのである/(中略)/わたしが人を責めることをしないならば/それが観世音菩薩であり/あなたがわたしを許してくださるならば/そこに聖(しょう)観世音菩薩は 現前(げんぜん)しておられる/観世音菩薩というのは/世界を流れている 深い慈悲心であり/あなたの内にも わたしの内にも流れている/ひとつの 深い慈悲心のことなのである」(『観音経の森を歩く』野草社刊

 一読しただけで、だれもが仏性(ぶっしょう)を自覚するようなすばらしい詩だと思います。「ほんとうに大事なことをわかってほしい」と願う作者の慈悲心が智慧(ちえ)となって、やさしい表現で教えの真実を伝えるこの作品が生まれたのでしょう。

「慈眼をもって衆生を視る」の意味するところを、この詩を手がかりに考えれば、だれのなかにも、観世音菩薩と同様の深い慈悲心が流れていると見ることです。そして、一人ひとり別々の生き方をしていても、ともに全体のなかの一人として自他一体の大きな「いのち」を生きており、互いにそのような尊(とうと)い命をいただいていると見ることです。それが、無量の福を呼ぶ慈(いつく)しみの眼といえるのです。

『足元を照らす灯に』の段落では

 作家の立松和平(たてまつわへい)さんが、信仰の山として親しまれる栃木県の男体山(なんたいさん)に登ったときの体験を随筆(ずいひつ)に綴(つづ)っていました。

 懐中電灯(かいちゅうでんとう)を持たないで山に入ったその日、立松さん一行は下山(げざん)が遅れて日没を迎え、山道を歩くのが困難になってきたそうです。足元はるかに中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)があり、湖畔(こはん)には土産物店や宿の明かりが輝いていますが、山中(さんちゅう)の闇(やみ)は深くなるばかりです。そのとき、前方にかすかな光が見えました。それは、道の先で疲労のためにしゃがみこんでいた女性の持つ懐中電灯の小さな灯(あかり)でした。立松さんたちは女性のもとに歩み寄り、荷物を持ってあげます。そして、細く、小さな灯で足元を照らしながら一緒に山をくだったのです。

 立松さんは、こう記します。「いっしょに歩いた私たちは、その婦人にとって観音で、その婦人は懐中電燈(でんとう)で足元を照らしてくれたので、私たちには観音ということになる。遠くの光は、どんなに光量(こうりょう)が豊かでも、なんの救いにもならない。そのかわり、どんな心細(こころぼそ)い光でもすぐ前にあれば、それは大いなる救いなのである」と。いたわりや思いやりという淡(あわ)い光のなかにこそ、菩薩が立ちあらわれるのです。

 それは、観音さまがあらゆる時と場所に現れて救いの手立てを示すと教える、観音経(かんのんぎょう)の「普門示現(ふもんじげん)」の世界そのものです。そして、慈悲の極(きわ)みといわれる「如来寿量品(にゅらいじゅりょうほん)」の結びの一節、「何(なに)を以(もっ)てか衆生(しゅじょう)をして 無上道(むじょうどう)に入り 速(すみ)やかに仏身(ぶっしん)を成就(じょうじゅ)することを得(え)せしめんと」を、私たち一人ひとりが自分の願いとして人を思いやるならば、そこにおおぜいの菩薩が生まれて、みんなが幸せになれますよと、観音経は私たちに励ましと救いを与えてくれるのです。

と、締めくくられた。

 先月号では「観音さまを念ずる」というご法話をいただき、自らの可能性を自覚することの大切さ、観音妙智の力を自覚し、自らその働きができるよう念ずることの大切さをご指導いただきました。

 今月号では、菩薩の実践についてご指導くださいました。まず、「慈眼をもって衆生を視る」見方について山尾三省氏の詩から、四つの実践が説かれ、この詩を手がかりに、観世音菩薩と同様の慈悲心が自分にも流れていると自覚すること、そして、「足元を照らす灯に」の段落では、立松さんご自身の体験をとおして観音の働きについて、光にたとえられ、「遠くの光はどんなに光量が豊かでも、なんの救いにもならない、そのかわり、どんな心細い光でもすぐ前にあれば、それは大いなる救いとなり、それが観音の救いであると。そこで、天台宗の宗祖「最澄」の言葉「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」が思い出され、一隅を照らす人が観音さまと同じともいえると感じた。観音さまの「普門示現」の働き、苦しみ悩む人に寄り添い、自分にできる精いっぱいを尽くして、心配行をさせて頂く。

 今月も、また、下半期に向けて、身近な人の足元を照らす灯になれるよう精進させて頂きましょう。                                                                            

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡