令和3年8月度 教会長のお話

 令和3年8月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。

 今月は、『心の隙間を埋める』というテーマを、

 ○ 心のなかには鬼も仏も ○ 常精進を助ける言葉 

 の2段落でご解説いただいた。

 まず、『心のなかには鬼も仏も』の段落では、

 仏教では、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つを「人の心を毒する根本的な煩悩(ぼんのう)」と教えています。何においても必要以上に貪(むさぼ)り、満足を知らない心、怒りの心、真実の道理がわからず、目先のことしか考えない心 ―― これらが嫉妬(しっと)や憎しみや不和を招いて、自分を苦しめるというのです。

 「三毒」といわれるこうした煩悩は、人間ならだれでもあるもので、もちろん、釈尊(しゃくそん)にもあったのです。ただ、私たちと釈尊の違いは、欲望や怒りを制御(せいぎょ)できるかどうか、という点です。私たちは、欲や怒りをうまくコントロールできないがために、思わず軽はずみな行動や悪いことをして、よけいな苦しみを背負いこむのです。

 そのようなとき、私たちは「つい魔が差して」といったりしますが、その「魔」は「人に害を与える鬼類(おにるい)」とか「人の心を迷わせ、乱し、修行を妨(さまた)げるもの」といわれます。

 ただし、それは外部から私たちの心に侵入(しんにゅう)してくるものではありません。神や仏が自分の心の写し絵であるのと同じで、魔も鬼も、すべて自分の心のはたらきです。

 ところが、幸いなことに、法華経(ほけきょう)の「陀羅尼品(だらにほん)」に「陀羅尼を得たならば、餓鬼(がき)のような鬼どもが人の弱点をさがしてつけ入ろうとしても、つけこむ隙(すき)が見いだせない」とあります。餓鬼とは貪欲の象徴ですから、あれも欲しい、これも欲しいと貪る心が起きかけても、「陀羅尼」を得れば、その心が暴れだす前に制御できるというのです。

 それでは、心のなかの魔や鬼が暴れだす隙を与えない「陀羅尼」とはいったいなんでしょうか。また私たちも、その「陀羅尼」を得ることができるのでしょうか。

 『常精進を助ける言葉』の段落では 

「陀羅尼」について、本会では「あらゆる悪をとどめ、あらゆる善をすすめる力」「それを唱えれば仏の世界にまっすぐに入っていくことができる神秘的(しんぴてき)な言葉」と説明しています。もう少しわかりやすくいえば、「陀羅尼」とは、それを唱えれば、心のなかで動き回る貪りや怒りや自己中心の思いを抑(おさ)えて、自分のなかにある仏の心をはたらかせる力をもつ、呪文(じゅもん)のような言葉ということでしょう。

 以前、武士道について書かれた『葉隠(はがくれ)』のなかの「跡見(あとみ)よ そわか」という言葉をご紹介しましたが、これは「忘れていることはないか」「もう一度、よく見てごらん」と、自分の行ないをふり返ることをうながす「陀羅尼」です。

「そわか」とは仏への呼びかけの言葉で、円満成就(じょうじゅ)するといった意味もありますから、この言葉が自分のなかの仏への呼びかけとなり、仏心(ぶっしん)に立ち返るスイッチになるのです。

 ついカッと頭に血がのぼりそうになったときなどに、私は心のなかで「おんにこにこ はらたつまいぞや そわか」と唱えます。すると感情の波が静まって、後悔するような言動を慎(むさぼ)むことができるのです。

 どれほど強い意志をもった人も、鬼や魔にたとえられる貪瞋痴(とんじんち)の誘惑にはなかなか勝てません。しかし、心に隙が生じそうなときに自己を省みる「陀羅尼」というスイッチがあれば、魔が動きだす前に隙間を埋めて、心を切り替えることができます。菩薩(ぼさつ)の道を歩もうと誓いながらも、迷ったり悩んだりすることの多い私たちにそのことを教えるのが「陀羅尼品」ではないかと私は受けとめています。

 難しい言葉の意味や理屈がわからなくても、「陀羅尼」を唱えれば心願(しんがん)が成就するといった昔からの用いられ方を見ても、私たちをいつでも精進(しょうじん)の道へと引き戻し、元気を与えてくれる力がそこにあるということでしょう。

 では、自分にとっての「陀羅尼」とは ―― それを考え、会得(えとく)するのもまた、心の隙間を埋める助けになるはずです。

 と、締めくくられた。

 仏教は「中道」の教えといわれます。「中道」とは一方にかたよらないということですが、それは「右にも左にもかたよらない、ちょうど真ん中」というような固定的な位置を指すものではなく、真理に合っていれば位置はどこでもいいという考え方です。この教えが身につくと、固定的なものの見方はなくなり真理に合った考え方が身につくといわれます。

 そして「陀羅尼品」では、三毒といわれる煩悩に悩まされるのが凡夫であるが、その三毒をコントールできるのが陀羅尼であると説かれます。中道の教えのバランスと陀羅尼による感情のコントロールができると、感情の波が収まって、後悔するような言動を慎むことができる。心に隙間が生じそうなときに、自己を省みる「陀羅尼」というスイッチがあれば魔が動きだす前に隙間を埋めて、心を切り替えることができる。菩薩の道を歩もうと誓いながらも迷ったり、悩んだりすることの多い私たちにそのことを教えてくれるのが「陀羅尼品」である。私にとっての陀羅尼は、「善いことを 心をこめて くり返す」です。

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡