令和3年10月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。
今月は、『 原点に帰ろう 』というテーマを、
〇 「十よりかえるもとのその一」 ○ 道心と童心
の2段落でご解説いただいた。
まず、『「十よりかえるもとのその一」』の段落では、
信仰をはじめたばかりのころ、私たちは先輩から一つ一つ教えていただきながら、自分でも教えを求めて学び、少しずつ仏の教えを身につけてきたと思います。法座(ほうざ)にすわれば法によって救われた人の話に感動し、道を求める気持ちがさらに高まって、一方では自分の至らなさに気づかされ、また精進(しょうじん)する ―― その繰り返しが「求道(ぐどう)」です。
ところが、それに慣れてくると、最初のころの感動や求める気持ちが薄れ、わかったような気になって、自己を磨(みが)くという信仰本来の目的を見失ってしまいがちです。
「十まで習ったから、もうそれでいい」ということではなくて、「十まで知ったなら、また一に戻っておさらいをする」。そうすることで、最初に学んだときには気がつかなかったことに気づかされ、また一歩、教えの真意(しんい)に近づくというのが、冒頭に掲げた言葉の意味あいだと思います。
法華経(ほけきょう)においても、二十八品(ほん)の結びとなる「普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)」は、まさに法華経全体を総括(そうかつ)する内容で、そのことをとおして、つねに原点に帰る大切さが教えられています。
晩年の開祖さまが、法話でよく同品の「四法成就(しほうじょうじゅ)」にふれたのも、序品(じょほん)からの法華経の教えをやさしい表現でおさらいする内容だからだと思います。仏に護(まも)られていることを信じて、善(よ)いことを繰り返し、信仰の仲間とともに、社会全体の幸福を願って思いやりの実践につとめる ―― これが、仏の道を信じて歩む私たちの基本、原点だからです。
『道心と童心』の段落では
「恋法(れんぽう)」という言葉があります。ただひとすじに、純真(じゅんしん)に法を求めるという意味で、「勧発品」の「勧発(かんぼつ)」のことを天台大師(てんだいだいし)がこのように解釈して記された言葉のようです。
たしかに、仏の教えを聞かせていただきたいと一心に願うのは、あたかも人を恋(こ)い慕(した)うときのように、相手(法)のことをもっと知りたいと思い、相手とともに歩みたいと願って、それを純粋(じゅんすい)に求める気持ちに似ています。いつでも信仰の原点に帰って精進するには、人を恋するように道を求める気持ちが原動力になるということでしょう。
ただ、そうはいっても、一般社会にあって日々の生活を大切にしながらとなると、信仰一途(いちず)には行けないこともあります。生きるためには利害(りがい)や打算(ださん)も無視できなくて、そのために精進がおろそかになるのもやむを得ないかもしれません。それでも、みんなと一緒にいい社会をつくり、ともに幸せになりたいという、幼い子どもがもつような純粋な願いを忘れなければ、いつでも発心(ほっしん)したころの気持ちに帰ることができます。つまり、「道心(どうしん)」とともに「童心(どうしん)」を失わないことが大切だということです。
「勧発」の「勧(勧(すす)める)」という言葉には、「励まして気持ちを奮(ふる)い立たせる」という意味もありますが、「普賢菩薩勧発品」では、仏の教えを実践する人が仏から「善哉(ぜんざい)」とほめられたり、頭をなでられたりします。日々の仏道実践(ぶつどうじっせん)に新鮮な気持ちでとりくむとき、仏はこのようにいつでも私たちをあたたかく見守り、励ましてくださるのです。
そう思うと、地道(じみち)な精進にも弾(はず)みがついて楽しくなってきます。原点に帰れば、ご供養も法座もサンガとの出会いも、感動を新たにする喜びの場であると気づくのです。
と、締めくくられた。
今月は「原点に帰ろう」というテーマでご指導をいただきました。「法華経においても、二十八品の結びとなる『普賢菩薩勧発品』は、まさに法華経全体を総括する内容で、そのことを通して、常に原点に帰る大切さが教えられています。」(本文)法華経に出会えた私たちが、その教えを「ほんとうに自分のものにする」、本当に自分のものにするというのは「真の功徳を得る」ということにほかならない。そのためには「四法成就」が必要であると『法華経の新しい解釈』でも説かれています。
つまり「諸仏に護念せらるる(信仰の確立)」「徳本を植える(自行の確立)」「正定聚に入る(僧伽意識の確立)」「一切衆生を救う心を発す(化他行の確立)」ために、三つの基本信行の一つひとつを丁寧に実践させていただくことが、原点に帰ることではないでしょうか。
合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡