令和3年11月度 教会長のお話

 令和3年11月号「佼成」の会長先生の「ご法話」を拝読させていただき、文末に感じたことを書かせていただきます。

 今月は、『なぜ、反省が必要なのか』というテーマを、

 〇 高みをめざすから反省がある ○ 何度も繰り返しながら 

 の2段落でご解説いただいた。

 まず、『高みをめざすから反省がある』の段落では、

 東洋思想研究の権威(けんい)として知られる安岡正篤(やすおかまさひろ)師によると、私たち人間は「少しでも高く、尊く(とうとく)、大いなる存在に向(むか)おうとする本能」をもっていて、そのはたらきによって神仏を仰(あお)ぎ、敬(うやま)う心が生まれるといいます。同時に、人としての高みをめざすがゆえに、自分に至らないところがあると気づいたときには、それを省(かえり)みて恥(は)じる心が生じると述べています。つまり、反省や懴悔(さんげ)が人間の心を育て、ひいては人類の進歩や向上を支えてきたということです。

 ところが、一般的に反省や懴悔は、不名誉なものと思われがちです。とくに懴悔は、「自分のおかした罪悪に気づき、それを神仏や他人に正直に話して悔(く)い改めることを誓う」と辞書にあるので、その言葉の印象からか、否定的で暗いイメージをもたれています。そのため、失敗をして反省したり、人前で懴悔したりするのは「恥ずかしくていやだ、情けない」と思う人がいるのでしょう。

 しかし、理想とする存在や人間的向上をめざせばこそ、反省や懴悔の心が起きるとすれば、反省や懴悔は向上を求める前向きな意思のあらわれです。情けなくて、みじめなことなどではなくて、むしろ失敗や挫折(ざせつ)に恥じ入りながら向上していくのが、人間の当たり前の姿なのだと思います。

 私たちになじみ深い法華三部経(ほっけさんぶきょう)では、その結びで、法華経(ほけきょう)の教えを実践していく上で必要なこととして、懴悔をテーマとする仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)(以下、観普賢経)が説かれます。どれほど精進(しょうじん)しても私たちは雑念(ざつねん)に惑(まど)わされますし、至らないことのすべてに気がつくわけではありませんから、いつでも反省、懴悔する心が大切で、それが精進と一体になるとき、成長が促(うなが)されるということです。

 繰り返しになりますが、反省も懴悔も、私たちが理想を求めて生きていることから生じるものです。それはいわば、仏性(ぶっしょう)のはたらきによる向上の証(あかし)であり、菩薩の証明です。だとすれば、反省や懴悔ができること自体が、尊く、有り難いことにほかならないといえるのではないでしょうか。

 『何度も繰り返しながら』の段落では

 先の東京オリンピックでは、「自分に足りない部分を見定めて、さらに上をめざします」といった敗者のコメントにも胸打たれましたが、このこと一つをとっても、人生において反省が向上と一つのものであることがわかります。

 ただ、反省したり懴悔したりしたことが守れずに、失敗と後悔(こうかい)を繰り返すことがあるのも人生です。そのなかで、「懴悔したからには、絶対に同じ過(あやま)ちをおかしてはならない」と窮屈(きゅうくつ)に考えると息苦しくなります。反省を生かそうと努め、あるいは信仰における懴悔を実行しようと励むことは大切ですが、そのことにとらわれすぎると、思うようにできない自分や人を責めることにもなりかねません。

 観普賢経には、「煩悩(ぼんのう)をすっかり断(た)ち切っていなくても、けっして煩悩に溺(おぼ)れないこと。菩薩の行ないはそれが大切です」とあります。開祖さまは、「自分が弱くて間違いやすい人間であることを思い知ったら、新たな決定(けつじょう)をし直せばいいのです。今年だめだったら、来年は必ずと決心すればいい」と、至らない私たちに助け舟をだしています。

 いいところも悪いところも含めて、神仏の前に自分のありのままをさらけだすと、心が洗われます。そうしてまた、再始動すればいいのです。その反省や懴悔が精進の歩みを支える杖となって、少しずつ人間的に成長していくのです。

 また、人はなすべき仕事に没頭(ぼっとう)しているときがもっとも神に近いという言葉にふれたことがあります。観普賢経に、「若(も)し懴悔せんと欲せば 端坐(たんざ)して実相(じっそう)を思え」とあるとおり、反省、懴悔をしたら、あとは自己中心の見方を離れて、日々を一所懸命に暮らすことが大切なのです。

 と、締めくくられた。

 令和元年より、3年間にわたり、会長先生より法華三部経の要点を「佼成」のご法話でご解説いただきました。各品の要点を会長先生の視点で取り上げていただき、そして、その要点をとおして具体的な心の持ち方、実践の在り方を分かりやすく、丁寧に教えていただきました。この3年間の掲載は大きな宝物をいただけたと感謝でいっぱいです。

 さて、今月は法華三部経の総まとめである「観普賢経」をご解説いただき「なぜ反省が必要なのか」のテーマは、成仏に向かって精進させていただく私たちにとって重要な問いかけであります。会長先生は『年頭法話』でも「反省創造しよう」と方針をお示しいただきました。反省・懴悔の重要性をあらためて確認させていただきました。これからは、自己中心の見方を離れ(端座して実相を思い)、自分の仏性を自覚し、ふれる人の仏性を拝み切る日々を、一所懸命暮らしましょう。 

合掌
立正佼成会 姫路教会
たかとし
教会長 吉 田 高 聡